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その教育理念で本当に「子ども」が「より良く」育つか?

「子ども」の教育者は誰しも、その想いに差はあれ教育理念を持って教育にあたっています。しかし、その教育論で本当に「子ども」は「より良く」育っているのでしょうか?

よくよく考えてみてください。

私自身は毎日この自問自答の連続です。ある同僚にこのことを伝えると「それはウソでしょう」とたしなめられましたが、私は本心で毎日一人一人の教育に対して、私自身に問いかけながら今も教育にあたっています。

正直しんどいですが、そういう心持ちでいないと「子ども」の本当の姿が見えないような気がしてなりません。

同じ人間が同じ練習をしてもそのときそのときで「出来」が違います。「今日はどうしたんだろう」、「より前向きにするには何をしてどう声をかければいいのだろう」、そんなことがいつも頭のなかを駆け巡ります。

だからといって、すぐに行動には移せません。とりあえず策を持っておいて、気になるときもしばらく見守ります。すると、なかには思い過ごしや勘違いに終わることもあります。

ただ、しばらく見守っても気になることが変わらないときはその「子ども」の近くに行って声をかけます。

声をかけるときも、いきなり押しつけたり、決めつけたようなことは言えません。まず気になることを「子ども」に投げかけ、その原因を探ります。

このとき、「子ども」のちょっとしたつまずきが原因のこともあれば、こちらが思いもよらないことでビックリするようなこともあります。しかし、そんなときでも慌てず騒がず、「子ども」の気持ちを冷静に確かめながら少しずつ、「子ども」の「育つ」方法を探ります。

しかし、ここまでできたとしても「子ども」はその後、順調に育っていくとは限りません。私は「子ども」が育つというのはそれぐらい丁寧に慎重でないと「より良く」は育たないと思っています。

「人」は少々放っておいても、身体は自然と大きくなりますし、それなりに社会に出ても生活できるようになります。ならば、「教育」の必要性は何か? それは「子ども」がやがて「より良く」生きていけるよう、その力を育てていく機会ではないでしょうか。

「より良く」とは何を言うのかは各教育者の判断にゆだねたいと思いますが、少なくとも放っておいても育つレベルを「育てた」と勘違いしてしまう教育論や教育者にはならないでほしいと願います。

勘違いしないためにも常に自問自答をして自分の教育論を磨いてください。

「理念」をもって「子ども」を教育していく覚悟。教育者には必須条件です