また曖昧文化と明確文化の違いは、会社などの組織の特徴にも見られる。米国では明確に分割された職務が各人に配分され、課員の仕事となる。課員が何人か集まって課が構成され、課長は課員にそれぞれマンツーマンで指図する。課員の職務は明確に分割されているので課員同士の調整はあまり必要ではない。

日本ではまず課全体の仕事が考えられ、それが一応分割されて課員に配分される。一応の分割ということは融通が利きやすく、調整も必要ということである。課長はマンツーマンの指示者というよりも課全体の調整役である。

米国の職務が実線で区分されているとすれば、日本の職務は点線で区分されているようなものである。そして日本では会議が多すぎるとも言われるが、これはそのように課全体の調整を要する日本文化から来る特徴とも言えるのである。

前述の通り、曖昧文化と明確文化の違いは優劣ではないのであるが、英米文化に対するコンプレックスから来るのかどうか、優劣としてとらえている人が少なくないような気がする。だからこそ用件は常に結論から切り出すべきだという誤解が生まれたり、ものごとは常にはっきり言ったほうが良いというような俗論が生まれるのだろう。

例えば、フリージャーナリストの後藤健二さんなどが殺害されたことは悲しむべきことであるが、日本側の対応が本当に適切なものであったのかどうか疑問が残る。

日本人がイスラム国(IS)に人質に取られている時に、ガザ地区のパレスチナ人を一般市民だけでも一〇〇〇人以上も殺害している(国家によるテロだという見方もある)イスラエルの首相と日本の首相が握手をして「テロとの戦い」を高らかに明言することは、果たして賢明な行動だったのだろうか。

テロに屈しないという言葉は勇ましいが、それが実質的な交渉をしなかったということだとすれば人質を見殺しにしたに過ぎないという見方も可能になる。この程度のことを言っただけでもお前はISに加担するのかと言われそうな最近の日本の風潮が気になるところである。われわれがいつか来た道を歩んでいるのでなければいいのだが…

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『雑草のイマジネーション』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。