【前回の記事を読む】【小説】50代・主夫の懊悩「俺はただのヒモじゃないか」

別離

私は昭和三十一年、大阪市都島区京橋で父の野村春夫と母の登実子の長男として生まれ、名を正行まさゆきとつけられた。父が大阪の国立大学一年生のときに、戦後すぐに再開した女子専門学校を卒業した母と知り合い付き合いだした。母は卒業後、都島区の保険会社の事務職に就職し、父との交際が二年と経たないうちに私ができた。

母の妊娠で二人は結婚の決意をしたものの、それぞれの親は二人の結婚に反対した。ことのほか父側の反対が強く、諦めなかった父は最後には親から勘当された。母も実家を飛び出し、二人は結婚式をあげることもなく入籍届を出しただけで慎ましく新婚生活を始めた。まだ結婚には偏見や差別が色濃く残る時代であり、互いの実家は同じ沿線のほんの数駅離れた距離のため、それぞれの家柄を知るには容易だった。

野村家は地方でも由緒ある旧家で、しかも父の春夫は本家の長男だった。二人は母の勤務地近くの路地裏にあった商人宿を改装した、共同炊事場とトイレの六畳ひと間のアパートを借りて暮らし始めた。私はそこで生まれた。父は大学の授業もほどほどにアルバイトに明け暮れても生活は厳しかったが、母は産後しばらくしてもとの保険会社にうまく戻ることができたので、なんとか親子三人生活ができた。

昼間、私は隣の部屋の老夫婦に預けられ、母は昼休みに会社からこっそり家に戻って乳をくれた。所帯を持った当時の家財道具といえば、さすがにリンゴ箱ひとつではないにしても、実家の納屋から持ちだした古い卓ちゃ袱ぶ台だいひとつだったことを、母は後に懐かしげに話していた。

父の学費など実家からの援助がすべて途絶えたが、なんとか大学を卒業して家電メーカーの技術者となり、その後、その会社に近い寝屋川の賃貸ではあるが一軒家に引っ越した。暮らしに少し余裕ができ、私は小中一貫教育の国立大学付属小学校に入学した。

しかし、小学校の二年生のときに両親が離婚した。何があったか幼かった私には理解できなかった。母が親権をとり母子家庭となったが、私の姓は野村のままだった。そこには母の想いがあったのだろうと、後になって思いあたる。

母は私が中学生になって間がないころ、同じ保険会社の男と再婚した。その再婚した男に私と同じ歳ごろの男児が二人いた。それが理由で、私は祖父母の家に預けられることになった。当然、私は国立大付属の中学校から市立の中学校に転校した。