【前回の記事を読む】動機は不純でもいい!「成果」を得るのに本当に必要なのは…

五感に訴える仕事 《三十二歳〜三十三歳》

午後からは、午前中に配達した空容器の回収にクルマを走らせる。回収した弁当箱の入ったコンテナを山積みし、早朝にタワシで擦って洗ったポリバケツを引っ張り出し、胸から足元まであるゴムエプロンを掛け、食器洗浄機の投入側に立つ。洗浄機の下側のノズルから熱湯が吹き出し、小さなフックの付いたステンレス製のコンベアが回り始めると、投入口からは蒸気が溢れ出す。コンテナから一個ずつ弁当箱を手に取り、蓋を取り、弁当箱の残飯をポリバケツに叩き落とし、空になった弁当箱を裏返してコンベアに載せる。

(俺は、こんなことをするために広島に帰って来たのか)

汗を流しながら際限なく作業を繰り返していると、情けなくて涙が出そうな毎日だった。

「何をしている時、自分は一番幸せなんだろう?」

結婚直後に自問自答して得た結論は、「モノを創っている時」そして「創った作品へのリアクションを得た時」だった。だのに、今の恭平の毎日は、弁当を作って配達するだけの単純作業に埋没し、創作する歓びはもちろん、何ら仕事に対するリアクションも感じられない。虚脱感に浸りながら弁当箱の洗浄作業を続けていた或る日、不意に閃いた。

「書き綴って印刷された広告コピーは、単に視覚に訴えるだけだ!」

「テレビCMにしたところで、視覚と聴覚の二感に訴えるだけの媒体に過ぎない!」

「だが、弁当は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、五感の全てに訴える作品だ!」

「そして、考えてみれば残飯は、消費者から生産者へ向けた正直なリアクションだ!」