【前回の記事を読む】明確な指標を失った現代…「中心的文明迎合主義」の先を目指す

逆縁

仏教の根本思想の一つに「縁起」がある。この世のあらゆる事象は因縁によって生起するという。因は直接的な原因であり、縁は間接的な条件である。あらゆる事象は他との関係が縁となって生起するという考え方である。縁が素直な方向性を持つ場合を順縁といい、縁が反対の方向性を持つ場合を逆縁という。

例えば、仏の教えを聞いて素直に仏法の道に入ることを順縁という。逆に最初は仏なんてあるものかと説教に反発していたものが、結果的には仏を信ずるようになることを逆縁という。

だいぶ昔のことであるが、目白ロゴス英語学校の学生の時に山本三和人(さわひと)先生に英語講読を教わった。テキストは『神への反抗』という先生の著書の英語版であった。山本先生は英語学校の校長であると同時にロゴス教会の牧師でもあったので、英語を教えながらキリスト教の啓蒙も考えていたのかもしれない。

『神への反抗』という書名はショッキングであったが、山本先生は神の存在を否定しよう否定しようとしているうちにいつの間にかクリスチャンになってしまったと話していた。そのような入信の仕方は仏教的に言えば逆縁による入信ということになる。

逆縁にはこのほかにも二つほどの用法がある。

一つは逆縁婚の意で用いられる。配偶者の一方が死亡したとき、死亡した配偶者の兄弟または姉妹と再婚することである。例えば、嫁ぎ先で戦死した夫の兄弟と再婚することは数多くの戦死者を出した戦後の日本では少なからず見られた婚姻形態である。

もう一つは子供が先に死亡して親がその法事を行う意で用いられる。一般に家族が死亡すると葬儀を行い、死者を墓地に埋葬し、戒名を付けてもらい、位牌を作ってもらう。家に仏壇を設けて冥福を祈る。その後も折に触れて墓や仏壇に供えものなどをして供養する。

伝統的な家制度はなくなったわけであるが、実際には「跡継ぎ」や「跡取り」という言葉が残っているように家の跡継ぎは今でも墓や仏壇を守り、先祖の供養をするのが普通である。(均分相続の現代でも家の跡継ぎは本家を守るために他の兄弟よりも多くの財産を相続すると考えてもよい。)それが逆縁だと一人っ子の場合は親の法事を行うものがいなくなってしまうことになる。

ほかに子供がいても親が子供の法事を行うことほど辛いことはないので、それ以上の親不孝はないといわれる所以であろう。