メルボルンから山名先生が帰ってきた

岡大医学部の100有余年の歴史の中で、アメリカ、ドイツなどに留学され立派な仕事をして論文を書かれた先輩は枚挙にいとまがない。しかし、英連邦(Common wealth)の一員であるオーストラリアで英連邦共通のPh.D.を取得したのは岡大医学部の長い歴史の中でも私が第一号であった。

オーストラリアに行く前の私の抗リンパ球抗体の仕事はある意味学会で特別の扱いを受けていた。帰国したころには私が渡豪する原因となったリンパ球の概念はTリンパ球、Bリンパ球時代となり、免疫にかかわる研究者の共通認識となっていた。しかし、3年前の私の抗胸腺細胞抗体(抗Tリンパ球抗体)と抗脾細胞抗体(抗Bリンパ球抗体)のイメージは私に付きまとっていたようである。

世界の免疫学3大学派の一つメルボルン学派でPh.D.を取得しての帰国、そして学会参加であったゆえ、何らかの期待を込められたか知らぬが、各種学会からシンポジストとして指名され、超多忙な生活が戻ってきた。3年間のオーストラリアでの仕事を細切れに出すことで当座をしのいだ。しかし、私の心にはすでに埋めがたい空洞ができていた。

私は当時細胞性免疫グループ長であったが、大藤教授は私のもとに多くの若手医師を部下として送り込んできた。しかし私の意欲の衰えは如何ともしがたかった。T細胞、B細胞時代を迎えたとはいえ、1970年代は臨床の場で患者と関わりつつ細胞性免疫の研究を続ける者にとっては苦難の時代であった。

臨床をやるものは、臨床に役立つ研究成果を挙げねばだめだ

私の属していた科はリウマチ・膠原病科。従って多くの膠原病、関節リウマチ、膠原病類縁疾患の患者が来院される。回診では患者の病態を反映するデータをもって患者の病態を判断する。液性免疫班は自己抗体、補体と関連する指数を多く持っていた。しかし、細胞性免疫班は患者の病態と並行して動き、しかも簡単に測定できる指標はほとんど持ち合わせなかった。従って、回診中は暇で教授から何か尋ねられることもなく、私の方から提言することもなく、病室の片隅でゴルフ談義をしたり、スイングのまねをしたりして時間をつぶしていた。

かといって何もしていなかったわけではない。私の頭の中は臨床に役立つ細胞性免疫指標で何かないか追い続けていた。ポーク・ウィード・マイトジェン(PWM)によるリンパ球の幼若化はどうか。患者組織でリンパ球を培養すると面白いのではないか、リンパ球を培養してのリンフォカインの測定で、何か得られないか。各種疾患または病態の変化でTリンパ球、Bリンパ球に形態的、数的変化は起きないかなどなどである。

しかしいずれも臨床指標を敏感に反映し、かつ簡便さに欠けていて臨床指標とはなりえず、従前からあるツベルクリン反応を越えるものは見いだせなかった。学会を見渡しても同様であった。研究のための研究ならいっそ基礎医学に行ってやればいい、中途半端は時間の無駄との思いと現実との葛藤に苦しんでいた。

私の性格は自分が何か創造的なことをしている時は充実しているが、振り返って何の足跡もついていない時間は無に等しいと自分を追い込む貧乏性的なところがあった。学生時代とは全く異なる自分がそこには居た。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『心の赴くままに生きる 自由人として志高く生きた医師の奇跡の記録』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。