武帝はBC一三五年ごろから独裁的な専制君主の本領を発揮するようになった。まず始皇帝が潰した儒教を優遇した。儒教はもともと現実世界を肯定して、君臣父子の礼を説き、帝国秩序の維持には都合の良い学派だったが、六芸(春秋、詩経、書経、易経、礼記の五経と楽)をもつ幅の広さが漢帝国のスタイルに合致したのである。

しかし儒教が直ちに国教化されたわけでない。この時代の中国の宗教は黄老思想が盛んだった。黄とは三皇五帝の最初の帝―黄帝を指し、老子を尊敬して、更に最高神太一が国家の祭祀を受けていた。

武帝は当時、北方より匈奴が力をつけて南下の態勢にあったのを苦々しく思い、BC一三九年、西隣の大日氏と協定してはさみうちにしようと考えた。この戦いは武帝が没するまで約五十年打ち続く対匈奴大戦争の始まりだった。この間、西域への道が開かれたので、シルクロード、海の道、草原の道などが東西の交易路として開通した。

その上、武帝は、匈奴には属国的スタンスをとったので国庫が豊かになった。満を持した武帝はBC一二一年に終に匈奴の親族一派が漢に降って、国際関係は主従が完全に逆転した。

しかし、度重なる大規模な外征は国力を蝕み財政を圧迫させたのでBC一一九年には塩、鉄、酒の専売制を始め、BC一一〇年には政府が重要物品を高騰時に売却する介入を施行して、歳入増を図った。

北方が安定したので武帝はBC一一三に「南巡」を開始して東南アジアまで進出した。当時の漢は金が豊富に産出し、特産物として「絹織物」があったので、対外交易は比較的容易だった。絹(シルク)は今でも中国の宝で、最近では二〇〇八年の初の北京オリンピックの新空港ビルは「シルク宮殿」の名がつけられ、IOCも認めた。

このようなエピソードもあり、絹の製造法はアジアに秘められた謎だったが、欧州では地中海方面で生糸の要望が強まりAD五五〇年に二人のペルシア修道僧がビザンチン皇帝に説かれて、カイコガの幼虫を竹の杖の「うろ」に隠してイスタンブールへ持ち帰らせた。

このうち少数の生きながらえた幼虫が広まり、一九世紀にいたるまで、ヨーロッパの養蚕の元となった。明治大正期にはわが日本が世界一の養蚕国になり、今でも最高級織物としての価値は高い。

武帝の(特に前半の)時代は、中国の古代帝国の極盛期と言ってもいい。「奏皇漢武」という言葉があるように、武帝は始皇帝を意識して、常に張り合おうとしていたように思われる。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『21世紀の驚くべき海外旅行II』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。