春は名ばかり

今朝になってさらに気温が下がってきた。昨夜からのそぼ降る雨の中、私はユリを車で駅裏まで送ってきた。これが主夫というか、主夫のような暮らしの日課だが、したくてこんな暮らしをしているわけじゃない。さりとて誰かから強制されたわけでもなく、私はヒモよりましと甘んじてしている。

「行ってらっしゃい」

窮屈に傘をさしながら降りるユリに媚びるかのように言った。ユリは低く小さなおざなりの返事をして、傘の柄を片手で持ちながら私の差し出すバッグを受け取ると、そのまま視線を合わすことなく肘でドアを閉めた。しばらく彼女のうしろ姿を私はワイパー越しに追っていた。

疎らな店先を抜け小さな駅に向って、重く冷たい空気の中を人は皆、傘で顔を隠すように無言のまま俯き加減で流れて行く。ユリはその傘の群れに紛れ、そして消えた。駅へと続く狭い道沿いの水路脇に河津桜が植えられているが、開き始めた花もこの氷雨に震えているかのよう。

ユリは私の知らない、いや私が立ち入ることを拒否された世界に一人入って行く。そこから再びここに戻ってくるのだろうかという不安を、彼女の残した香水の微かな香がいっそう募らせる。

五十を過ぎたこの歳からくる喪失感からか、ユリに対する過剰な執着心が私のどこかから湧いてくる。やっとヒーターが効き始め脚元が温かくなったが、底冷えした私の心は縮んだままだった。車のラジオから流れてきたはやり歌、“私のお墓の前で泣かないでください”の詞にも心を癒されることもなく、湿った気持を持てあましながら下ってきた長い坂をまた上る。

私は丘の上の2LDKの賃貸マンションに妻のユリと息子の(てる)(ゆき)と三人で暮している。妻の本名は百合子だが、知り合った当時からユリと呼んでいる。息子も、私の名の一字を取って輝行と名をつけたものの、妻も私も(てる)と呼んでいる。輝は私たちが家を出るひと足先に、家から徒歩で数分の中学校に飛びだしていった。

玄関を入ると、朝の喧騒な小空間は静寂に変っていた。室内は薄暗いが灯りを点けるほどでもない。私は朝食の片づけをしたあと、コーヒーポットの残りをマグカップに入れて、テーブルの椅子に腰をかけて飲んだが、煮詰まっていて苦かった。