悲痛な歌である。婆須槃頭の低音(バス)が朗々とロシア語で情景を描いて訴えかける。想像以上に力量と声量に満ちた歌声だ。男声コーラスとオーケストラはフォルティッシモから徐々に音量を下げ消え入るように曲を終える。テストはOKだった。

ロシア連邦ダケスタンの詩人R・ガムザトフの手になる詩に、Y・フレンケリが曲をつけたものであるが、一九六五年、日本の広島で開かれた原水爆禁止世界大会にガムザトフは出席し、その時見た広島の原爆の子の像(千羽鶴の塔)に衝撃を受け、祖国の鶴伝説を思い起こしこの詩を作ったといわれる。

婆須槃頭はこの歌に何を託したかったのだろうか。無辜(むこ)の民が無慈悲に命を奪われ散っていく戦争。そこには近代への相克もない。平和への理念もむなしい。只々生命の無駄な消費と、命を終えねばならない死んでいく者の無念さがあるだけだ。婆須槃頭はついに私に何も語りかけなかった。聞いてもらう人だけがわかるとでも言いたげに。

次に歌うのは「オールマンリバー」だ。曲調はロシアの重苦しさから近代アメリカの重苦しさに代わる。ミュージカル映画「ショウ・ボート」で黒人によって歌われたこの歌は、アメリカの恥部をさらけ出した。

奴隷としての黒人への言われなき人種差別の過酷さをミシシッピ川の悠々たる流れに託して歌われたこの歌を、婆須槃頭はどう描き切るのか。私は固唾を呑んだ。カメラ中央にややうつむき加減に映った彼は前奏とともに顔を上げ始めた。私には見慣れた彼の顔が黒人のように見えだした。前奏が終わると彼は静かに英語で歌いだした。


ミシシッピと呼ばれている親爺がいる

俺もあんな親爺になりたいもんだ

面倒なことが起きても悠々としている

自由がなくたって悠々と構えている

オールマンリバー

ミシシッピの親爺は

本当をちゃんとわかってはいるが

一言だって口にはしない

川は静かに流れていくのさ

ただどこまでも流れ続ける

川はポテトも植えなきゃ

綿も植えない

植えてる人間は

じきに忘れられちまうが

ミシシッピの親爺は

ただどこまでも流れ続ける

俺たちゃ汗にまみれて苦労して

体は痛み苦痛に呻く

荷船を引っ張り

荷物を上げる

酒など食らえば

監獄行きだ

身体はへとへと

やる気も失せて

生きていくのも嫌気がさすが

だからといって死ぬのも怖い

それでもミシシッピの親爺は

ただどこまでも流れ続ける

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『マルト神群』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。