【前回の記事を読む】実家で働き始めるも…年収の半減よりも我慢できなかったこと

動機は不純な方が好い《三十一歳〜三十二歳》

一時間もせぬうちに従業員が出勤し始め、互いに朝の挨拶を交す。何人かのパートタイマーや近所の主婦から、「朝早くから、大変ですね」「毎日、ありがとうございます」などの声を掛けられるが、常務をはじめ幹部社員は顔を合わせぬようにして出勤する。

彼らからは、「どうせ直ぐに生ゴミを入れるのだから、ゴミバケツは簡単な水洗いだけで充分」と言われ、道路の掃除は人気取りのスタンドプレーと見られていた。しかし恭平は、ポリバケツやゴミ置き場を清潔に保つことは、衛生を最優先すべき食品工場として当たり前と考え、朝晩の道路の掃除は住宅街に立地する工場として最低限のマナーだと考えていた。そして、こうした振る舞いは確かにスタンドプレーであることも自覚していた。

中学時代、美術部に籍を置き、写生大会やポスター・コンクールに出品すれば、ほぼ間違いなく入選していた恭平が、高校に入学と同時に、サッカー部に入部した動機は、単純にして不純、「女の子にモテたい!」の一念に他ならない。

昭和三十年代、サッカーはまだまだマイナーなスポーツだったが、サッカーを校技とする広島鯉城高校の新入部員は四十名を超え、半分が中学からの経験者だった。体格、資質、技術の全てに劣る恭平が、レギュラーになるために傾注した策は、「キャッチフレーズ作戦」。まずは「タフネス恭平」と称し、どんなことがあっても「疲れた」とか「参った」と口にしないよう心掛けた。

次に「タックルの恭平」を宣言。試合なら一発退場必至のラフプレーで、先輩を辟易とさせた。そうこうするうちに激しい練習に音を上げ、新入部員は一人減り二人減りして、夏合宿が終わった頃には十名に減っていた。それでもレギュラーへの道は依然として遠く、恭平は夏休み後に早朝練習を校門の直ぐ横で開始。

監督や先輩の目を意識しながらの練習は、三日坊主になることなく続き、一人黙々と蹴り続けたフリーキックに限れば、キャプテンと肩を並べるほどに上達した。そうした甲斐あって、一年生の新人戦からレギュラーに抜擢され、三年生の夏には県の選抜チームの一員にも選ばれた。

高校卒業時の同期部員は、入学時の十分の一まで減り、僅か四人。恭平は入部した四十名の誰よりも、サッカー選手としての資質は劣っていることを自覚していた。そして、どんなに優れた才能を持っていても、遣り抜かなければ宝の持ち腐れだと開き直っていた。

同時に三年間サッカーを全うできたのは、不純ながらも不屈のモチベーションがあればこそと得心した。本分の勉強においては「純」「不純」を問わず、然したる動機がなく悲惨だった。

唯一、「心を揺さぶるラブレターが書きたい!」と願う、「不純」な動機があった現代国語だけは、学年でもトップの成績を誇っていた。遠藤周作、石原慎太郎、開高 健、大江健三郎など芥川賞受賞作品は必読し、教科書を読むより熱心に読み漁った乱読と、精魂を傾けて書き綴ったラブレター群のお陰で、国語力は知らぬ間に向上していたようだ。

こうした経験から恭平は、物事を「始動」「継続」「成就」させるには強いモチベーションが必須であることを学び、立派過ぎる大義名分よりも、むしろ不純な動機の方が継続力も増し、成果も上がるとの持論を確立していた。