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論文は完成したが

仕事も順調に進み、2年9か月で論文を書き終えた。ネイルン教授の主催する免疫病理学教室の最短記録であった。今でも破られていないと聞く。問題はその論文の内容を3~4枚にまとめねばならないときに起こった。これには大変苦労した。

英語はスラスラ書けているつもりであったが、それは科学的な文章である。“まとめ”は文学的ニュアンスを要求される。私が書いたサマリーをボスに提出したところ、最初の1~2行読んだだけで、書き換えて来いと言われた。どこが悪いのか言わない。2~3回それを繰り返された。

私も困り、ジェニーに相談すると彼女は「ネイルン教授は大変いい英語を書く人だ。私などもまねができない文章家だ」という。彼が文章に非常にうるさいことは分かっていたが、今まで論文を書く過程でほとんど文句も付けられていなかった。私は何か別の問題があると感じた。

当時ネイルン教授は私に「Ph.D.の修業年限は3年だ。お前が来たのは2年前の5月だから今年の5月まで滞豪しなさい」と言ってきた。私は「論文は完成させたのだし、3月中に帰国せねば岡大で助手のポジションが取れない」ということは彼には話しておいた。ところが「征三、お前は講師でここに残る方法もあるぞ」という。

私は自分の現在の聞き取りとしゃべりの英語力、5年滞在をしたとしての英語力を慎重に考えていた。私の欠点は英語の聞き取り能力が弱いことだった。英語を母国語とする人間には遠く及ばない。死ぬ思いで努力すればどうかとも考えた。結論はNoで日本に帰らねばならないということであった。そんなやり取りがベースにあったわけである。

たかが3~4枚のサマリーを一生懸命書き換え、再度提出しても5~6行読むとだめだという。また直す。またダメを食らう。そのやり取りを辛抱強く繰り返して、10回目くらいにやっとOKが出た。これで帰国できると思っていたところ、Ph.D.の取得には論文を提出して海外の審査員との口答試験がある。それは3年目で5月だと言ってきた。

自分がやった仕事の内容についてのOral Testだから自信はあった。しかし、私はこの時点で覚悟を決めた。私は日本にポジションを持っていない。4月までに帰ればポジションを一つ残しておいてやると大藤教授からの伝言が来ている。日本に居た時、私は筆頭無給副手という立場であった。上が辞めれば助手になれるポジションである。

大藤教授に従えばネイルン教授の意に背く。板挟みに苦しんだ。気晴らしにゴルフをする時、ボールに“Nairn”と書いて思い切りしばいて気を紛らわせた。今にして思えば大変失礼な事をしたと恥じている。

ネイルン教授は私の忘れ得ぬ恩師の一人である。モナシュ大学は私が滞在していたころ、すでに巨大な総合大学であったが、今では世界100大学の中位に位置するほど素晴らしい発展を遂げた。広大なキャンパス、新しい発想のもとでの大学づくり、多くの留学生、豊かな資金力である。しかし私は、日本に帰ったことを後悔していない。相変わらず英語の聞き取りが悪いゆえである。