ここに登場した後白河法皇の閲歴を見ておこう。鳥羽上皇の第四子として生まれ、雅仁(まさひと)親王となった。先に天皇となった弟の近衛天皇が亡くなると、兄の崇徳上皇の皇子重仁親王との後継争いに勝ち、後白河天皇になった。その後、崇徳上皇と後白河天皇の争いが保元の乱(一一五六)を起こし、源氏の源義朝および平家の平清盛が付いた後白河天皇側が勝利した。翌々年後白河天皇は譲位(息子が二条天皇となる)して上皇となり院政を始めた。

上皇は源氏と平家をうまく操り政治の実権を握るも、平治の乱で源氏を追い払った清盛が武力と富で権力を握るようになった。嘉応元年(一一六九)義経が鞍馬寺に預けられた年に出家して後白河法皇となる。一一七七年法皇が黒幕となった反平家の鹿ケ谷事件が発覚して屋敷に閉じ込められ、院政を停止(ちょうじ)させられた。だが、法皇の政敵清盛が一一八一年他界すると院政を再開していた。神泉苑の雨乞いは復帰一年後の出来事(五十四歳)だったのだ。以後、武家から主権を取り戻そうと表裏で画策した。

義仲と行家

頭領清盛が没し、大黒柱を失って勢いを失った平家は、寿永二年(一一八三)後白河法皇の平家討伐の院宣を受けて、木曽で兵を挙げた源義仲に倶利伽羅峠で敗れた。義仲は、義朝の弟帯刀先生(せんじょう)義賢の遺児で、頼朝の従弟、義経の従兄に当たる。

家は都を落ち、代わって入った義仲軍は略奪・暴行の限りを尽くし、飢饉が続き飢えていた都が更に危機に陥った。これを見た後白河法皇は、平家討伐が実行されていないことを口実に、義仲を西国に向かわせ都から出した。西国で平家は勢いを取り戻しつつあったのだ。一方、法皇は裏で頼朝に上京を求めていた。先に源平を戦わせて共に弱体化させたい法皇の思惑通りに進んでいたが、木曽軍の濫行(らんぎょう)のため、先に源氏同士を戦わせる策をとり、頼朝の敵は義仲となった。

 頼朝は上京を断ったが、坂東の米を送ることは約束して、その荷駄隊の大将として義経を選んだ。頼朝の代官として指揮をする最初の出兵となる。それは義経の実力を見るにも良い機会であった。

「九郎。わしの代官として都へ米を運べ」

頼朝に呼び出され、その口から直接の命令を受けた義経は喜んだ。

「別に、義仲他源氏諸将の様子を探れ。都の状況もだ。但し義仲と合戦するためではない」

「はい。承知いたしました」

「護衛部隊は五百、荷駄の用意はできている、準備出来次第出立せよ。状況によって命令が変わるかもしれぬ。それに従え。そして連絡を密にせよ」

「かしこまりました。準備出来次第出立致します」

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『小説 静』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。