和枝が入院して二日目に、グループホームの担当者が契約と仕事のデモンストレーションのために家にやってきた。その直前、廉が麦茶を出す準備をしていた時のこと。

遥が急に「お茶うけは?」と聞いてきた。

「それは無くてもいいでしょう?」

ガラスのコップを拭きながら廉は軽く答えた。

「いいわけないじゃん」

「えっ、そうなの?」

遥は高い棚に手を伸ばし菓子器を出してきた。紙ナプキンもシンクの下の引き出しから持ってきて菓子器に敷くと、おかきを並べだした。さらに

「お手ふきは? お父さん」

「要らないでしょ」

「もう、要るに決まってるじゃん。何人来るの?」

「えー、二人かな、たぶん」

またどこからかお手ふきタオルを二枚調達してきて、水ですすいで軽く絞る。本当に怒っているわけではなく、自分はもう一人前だと廉に見せたい気持ちがそうさせていたのだと思う。口調や所作のひとつひとつが、あまりにも和枝そっくりで、廉はその働きぶりにしばし目を奪われる。

「ママをちゃんと見ていたんだね。見習ったのはピアノだけじゃなかったんだ」。そう思いながら手を貸そうとすると、「もう終わったから」と、ぷいっと自分の部屋に引っ込んでしまった。

入院から三日目の初めての日曜日、廉は遥を連れて面会に行った。遥にとっては初めての病院だった。和枝は、本館正面玄関のガラス扉の奥から二人を見ていた。

外来が休みでがらんとしているエントランスを、遥はママに向かって走り出していた。無言で抱きしめられると遥は面映ゆい素振りを見せたが、その瞬間から帰るまでの間、和枝に磁石みたいにピタリと張り付いていた。

ママには会いたいが、「面会」という特殊な再会の仕方に違和感を抱いていた遥。それでも実際に足を踏み入れてみて、あまり病院臭さを感じないこの空間に次第に馴染んでいった。

和枝に館内散歩に誘われ、二人で一階の喫茶室でお茶したり、和枝と廉が面談室に呼ばれている間は、ひとりで病棟の患者・家族専用のラウンジや、和枝の匂いのするベッドの中で恩田陸の『夜のピクニック』に夢中になっていた。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。