平家は重盛の長男維盛を総大将とする頼朝討伐軍を派遣したが、富士川で対峙する中、葦の茂みから飛び立つ水鳥の大群を敵襲と間違え潰走した。頼朝は飢饉の西日本を鑑み追い打ちをせず、足元を固めるため鎌倉に引き返すことにした。合戦に間に合わなかった義経は、黄瀬川で兄弟の対面を果たし、頼朝に従い鎌倉に入った。

やがて弁慶と重家が来て、佐藤兄弟・伊勢義盛と合わせ郎党ができた。しかし、義経はただ頼朝の弟というだけの存在であった。鎌倉では義経の意に反して重き地位は得られなかった。

つまり、頼朝に養われる部屋住みの御曹司にすぎなかったのだ。それでも義経は頼朝の次席であるという振る舞いをして、御家人たちの反感を買った。鎌倉では義経と郎党達は、与えられた敷地内で武芸に励むか、弁慶が正近に託され持参した六韜三略を開き兵法を学ぶことで無聊を慰めていた。

しかし、一途に仇討にはやる義経は弁慶の助言を無視して、この書で多く説かれる治世・行政の知恵・手段の部分を読み飛ばして戦略・戦術以外は学ぼうとはしなかった。国を支配することに関心のない義経には、政治というものは初めから念頭になかったのだ。

義経が鎌倉に入った翌年の養和元年(一一八一)は、後に養和の大飢饉と呼ばれた大旱魃に襲われた。餓死者は数万人にも及び、特に西国・近畿地方は悲惨だった。以下は語り伝えられたことで真偽のほどはわからないが、静が歴史に登場する契機となった。

寿永元年(一一八二)、都の荒廃を憂いた後白河法皇は、洛南の東寺を中心に三井寺・南都の東大寺に祈雨修法を命じ、弘法大師が天長元年に雨乞いを行った御所の南に位置する神泉苑で祈祷が行われた。竜神が棲むという池に南面する乾臨閣に着座された後白河法皇はじめ公卿公家女御達、そして入所を許された庶民たちが見守る中、神官の祝詞に続いて白拍子の舞となった。

この祈祷では、白拍子が百名集められて九十九人まで舞い終わり、残るはしずかだけとなった。静は飛鳥井家に伝わる、水の宴の曲を一人で舞った。

水のすぐれておぼゆるは、西天竺の白鷺はくろ

じんじょう許由きょゆうに清みわたる昆明池こんめいちの水の色

行末久しくすむとかや

賢人の釣をたれしは厳陵瀬げんりょうせの河の水

月影ながらかる夏は、山田のかけいの水とかや

芽の下葉おとづるは、三島入江の氷水

春立はるたつ空の若水は、汲めども汲めども尽きもせじ。尽きもせじ

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『小説 静』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。