【前回の記事を読む】【小説】「『東京スターオブライフ』って、どうですか?」

紅一点

そのとき、『ピー、ピー、ピー』と救急指令の出場信号が鳴った。

「……交替前、最後の一件。いくぞ」

菅平、岩原、水上の救急隊三名が食べかけのうどんをそのままにして立ち上がった。慌ただしく出ていく救急隊を見送りながら、舞子は三人のうどんのどんぶりから麺だけ取り出し、別の皿に盛ってラップをかけた。こうしておけば、出場から帰ってきたとき麺が伸びていないぶん、少しはマシだろう……。

二十四時間勤務の消防隊員は災害出場に備えるため、常に部隊で行動します。勤務時間中は、個人で勝手に外食や買い物にいくことはできません。交替で食事当番を決め、夕食や朝食を作っている場合が多くあります。数人で十人から三十人くらいまでの食事を作るので、料理上手になる消防職員が多いです。

さて、消防業界は圧倒的に男性多数の職場です。総務省消防庁では女性活躍推進を目指して女性消防官の割合を増やそうという政策を行っていますが、まだまだ珍しくみられることが多い状況です。救急現場で待っている傷病者は男女半々であり、隊員が傷病者の部屋に上がりこむ場面も多いため、著者は女性の救急隊員がもっと増えてほしいと願っています。

救急活動はチームで行われます。著者は、救急隊員・救急機関員・救急隊長としての勤務経験の中で「自分が経験不足で未熟だ」と感じた経験は多くありますが、「女性だからできない」と感じたことはありません。むしろ「女性が来てくれてよかった」と言われたことのほうが多く印象に残っています。

ピット・フォール

認知症の高齢男性が、長時間ベッドの柵に腕を挟まれていた。

「では、昨日の夜から、ご主人はずっとこの姿勢だったんですね」

菅平が、傷病者の妻に尋ねる。

「ええ。普段は、夜中に何度もトイレに起きるんですけど……。昨晩は、呼ばれなかったものですから」

「……いいから、早く出してくれよ。今日は、釣りに行くんだよ」

傷病者は七十七歳男性。脳梗塞の後遺症で普段から自力歩行はできない。認知症で意思の疎通も難しいので、介護認定は五段階のうち「要介護四」の認定を受けている。同居の妻の介護がなければ、食事や排泄などの日常生活もできない。どうやら、リハビリのために使っていたおもちゃの釣り竿をベッドの隙間に落とし、それを拾おうとして、ベッド柵とマットレスの間に腕が挟まり、抜けなくなってしまったらしい。排泄を我慢していたのだろう。オムツから尿臭が漂っている。

「隊長、バイタルは異常ありません」

舞子は、血圧や酸素飽和度の測定結果に異常がないことを菅平に報告した。腕が挟まっているとはいえ、ベッド柵は、ネジをはずせば簡単にはずれそうだ。

「サブストレッチャーで車内収容後、かかりつけ病院へ連絡でよろしいですか」

「……いや。特定行為だ。岩原士長、モニター装着と本部に病院選定依頼。赤倉くんは静脈路確保の準備を」

菅平は、傷病者の妻にこれから行う説明を開始した。

「岩原士長、あの状況で『クラッシュ症候群』ってわかりましたか」

傷病者を救命救急センターに収容後、資器材の整備をしながら舞子は岩原に尋ねた。

「……その可能性は、疑った」

クラッシュ症候群。一九九五年の阪神・淡路大震災で、瓦礫の下敷きになっていた人を救出した直後に容態変化が起こり、多くの人が亡くなった。別名、クラッシュシンドローム、挫滅症候群ともいう。筋肉が圧迫されて生じた物質が血中に流れ、それが原因で心停止をきたすこともあるという。救出前には意識清明なのに、救出後に亡くなってしまうことから「笑顔の死(スマイリングデス)」とも呼ばれている。