【前回の記事を読む】振り返ると全く違う景色…二つの顔を持つ万里の長城を巡る

三たび江南の古都・南京へ

翌早朝、南京へ移動のため北京空港に向かった。往路にも通ったが素晴らしい六車線の高速道路は、ごく最近開通したものだという。北京近郊で感心するのは広大な道路と、どこまでも続く街路樹の列である。

北京から南京までの窓際の席で、天候も良かったので、空港までの二時間で、華北から華中までの地相の劇的な変化を堪能できた。ジグザグに折れている黄河を越えるあたりまでは一望の耕地が広がっている。それが徐々にキラキラ逆光にきらめく水田に移行していく。

この大地で興亡四千年の歴史劇が展開されたのかと感慨が湧いてくる。やがて長江を渡って西方から南京空港に着陸した。

江南の古都、南京は今度で三度目である。二年前に来た時より空港付近も看板などが沢山建って賑やかになっている。

この都市は今まで数回、都になっている。三国時代に呉がここに国を建て、飛んで一四世紀に朱元璋がこの地を都として明国を創成した(もっとも二代目から北京に遷都した)。更に一九一二年に孫文が中華民国の臨時政府を設けている。第二次大戦時には日本軍の指示により汪兆銘が国民政府を置いている。

汪兆銘には思い出がある。彼が生涯を終えた時、入院していたのは名大病院だった。主治医の勝沼博士の指名で病室の空調工事を担当したのが私の父だった。戦時中で、この入院は最高の国家機密であり、子供だった私でも箝口令が守らされた。当時はよく意味がわからなかったが。

この街はもう慣れているので、中山陵、長江大橋等なじみのコースである。ただし、いつも「参観」させられる大橋たもとの毛沢東像に寄らなかったのは開放政策のせいだろうか。

ところで呆れたのは、盛り場の夫子廊で二年前と同じ母親が同じ顔中ケロイド状の女の子を抱いて、専ら日本人観光客に金をねだっていたのはどういう訳か。社会主義国は福祉の国でなかったのか。それとも金の力と情のある日本人がいないのか。自分が何もしてやれなかったので、敢えてここに書いた。

南京といえば、先日も閣僚の更迭問題を起こした、戦争中の日本軍による大量虐殺と言われる事件を避けられない。しかし、東京裁判でのみ有名になったこの事柄が実在したのかどうか本当のことはわからない。歴史が解決するだろうが、情報操作の強い共産政権ある限り当分期待薄であろう。

ただこの忌まわしい南京が名古屋の姉妹都市だという運命であるので、我々市民はこの問題を自分の問題として真摯な研究をすべきであるし、特に両国の地元の学識経験者に期待すること大である。

南京市に二つ目の高層ホテルが、しかも名古屋財界との合弁で前年五月に完成した。その南京グランドホテルに我々は宿泊した。総経理のKさんから概要説明を承った。二十五階建てで高架水槽方式の給水を行っているという。

工事中の苦心談としては、中国人作業者は、上意下達でしか動かない、チームワークがない、根回しがきかない、とのことであった。中国側が施工したせいか、我々技術者の目で見ると基本的な工事検査のなされていない所があるが、これもそのうち日本側の手で改修されるだろう。

しかし、ホテル内は名古屋風景をあしらった豪華な壁装やカラクリ人形など、ロビーで客の目を楽しませてくれるし、イルミネーションの夜景もなかなかのものであった。