北原屋の澤井社長に初めて会ったのは、入社の挨拶に千葉の本社を訪れた時だった。身長は恭平より少し低いが、腹の突き出た恰幅の好さと穏やかな表情とは裏腹に、鋭く射るような眼差しに圧倒され、恭平は瞬時怯んだ。その怯んだ恭平の一瞬の変化を認めた直後、澤井社長の眼は元の柔和なものに戻って、諭すように話し掛けられた。

「本川君、君のお父さんには数度しか会ったことは無いけれど、なかなかの人物ですよ。君は大学を出て広告会社で頑張っていたようだけど、飲食業では全くの素人だ。今回、君の指導を担当して貰う村野常務は、青森の田舎の中学を出て直ぐに我が社に入り、今では我が社の利益の半分を稼ぎ出す大幹部だ。君もこれまでの経験は取り敢えず忘れ、彼の教えを素直に聞いて一日も早く仕事を覚え、親孝行しなさい」

村野常務は、社長の隣で黙って恭平を眺めながら笑顔を絶やさず聴いていた。村野常務から最初に指示された研修先は、丸の内のオフィスビル地階のレストランでのウエーターだった。来店されたお客様に水を出す際に、グラスがテーブルを強く打って音を立てたり、水が零れたりしないよう、グラスの底に小指を当てることを教わった。些細なことだけど、些細なことだからこそ感心させられた。

意外にも恭平は「いらっしゃいませ」の平凡な台詞が、素直に発せられなかった。自分が特別プライドの高い人間だとは思っていなかったが、つい先日まで、客の立場で聞いていた「いらっしゃいませ」の何でもない一言が、喉につかえて出てこなかった。

「これまでの経験は取り敢えず忘れて」

突如、澤井社長の言葉が甦り、妙に惨めな気分になって恭平は唇を噛んだ。

客がドアを開けて入って来るたびに、軽く深呼吸して「いらっしゃいませ」の挨拶と共にテーブルに小指を当ててグラスを置き、注文を聞く研修は一週間続いた。恥ずかしいことに一週間経っても、自然な挨拶をすることができなかった。

「本川さん、案外に人見知りなんだね。実は私も、今でも人前で話すのは苦手ですよ」

レストランでの研修を終え、村野常務から声を掛けられた恭平は赤面してしまった。確かに恭平は人見知りも激しいが、研修中の失態は、未だコピーライター気分が抜け切らぬ、単なる甘えに他ならなかった。