教団分裂

八月の第一日曜日、中伊豆の、主の光一大神乃宮で世界真光文明教団の大祭が盛大に執り行われた。今回の大祭には、主座の上棟式がセットされており、全国の組み手が上棟式目当てに例年の大祭より大勢参集されたと聞かされた。真光の組み手には、主座、は悲願である、また絶対必要と教えられていた。その主座上棟式に立ち会えるのである。一生に一度いやそれ以上のことである、見逃す手はない。

日差しのきつい中、棟の鉄骨がクレーンで吊り上げられ、金のボルト、ナットと銀のボルト、ナットで所定の位置に固定され、全国から参集した善男善女の拍手が鳴りやまなかった。何より目出度し目出度しである。の筈であった。

大阪に帰り二日後に道場参拝すると、上棟式よかったね、の声が聞けるものと思っていたのが、専属幹部の様子がおかしい。四人が一塊になってひそひそ話をし、いつもの陽気な声が聞こえないのである。第二日曜日は道場御祭りである。此のとき、今、世界真光文明教団はこのような状態になっていると幹部から発表があり、教団が分裂に直面していると知らされた。目出度し目出度し、のはずが全く逆の話である。前兆はあったのである。

当時、阿倍野道場は幹線道路から少し入った静かな住宅街の一画にあり、悪くいえば目立たない場所にあった。道場の向かいの家が取り壊され、医院ではなく病院が立ってしまった。組手たちは顔を見合わせてはひそひそ話が交わされた。

「是は何かあるで、あるとしたら道場だろうな」神様は何をどうしようと思われているのかわからないが、何事もなく終わるとは考えられない。まことしやかな話し声があちこちで聞かれたものである。真光では病院に通いながら道場に通う人を私は知らない。

神様の御教えとして、病気とは、不幸不運とは邪霊の魔語なり、操りなり、一切はクリーニングあれど病なし。よくなるための変化あるのみ。と教えられている、病院は不要かといえばそうでもない。事故とか、大怪我をしたときは先ず命を助けるのが肝要、外科は必要になる。其の後また清まるよう努力すればよい。事故、怪我等も必要なくして起こらない。罪けし、贖いの類である。私の経験からもそう思う。果たせるかなである。ひそひそ話は的中する。

中伊豆の主座建立の資金不足により阿倍野道場は本部名義であったため売却されてしまった。地方の組手が建てたものであるが便宜上本部名義にしていたものである。

他にも何箇所か耳にした。教団が分裂するときはすんなりとはいかない。流言飛語の類あり、聞くに堪えないものもある。昨日まで志を同じにしていたとは思えなくなる。何を基準にするかは個人の意思である。