例えばその人の名前を、仮に、「やまもとさん」とします(今後、敬称略といたします)。誰かとの会話中に、他の誰かが、やまもとさんの名前を口にしたという状況を厳密に考えてみますと、まずはじめの「や」の音が発音されても、「やま」まで発音されたとしても、さらには「やまも」まで発音されたとしても、本人にはまだ自分のこととはわからないはずです。

速くても、次の「やまもと」まで発音された時点で、はじめて自分の名前が呼ばれたとわかる、認識できると考えられるわけです。つまり、言葉として、意味が形成されるところまで発音されてからでないと、認識ができないわけで、「やまも」まで発音された時点ではまだ自分のこととはわからないはずです。

そして再び申しますが、カクテルパーティー会場において種々雑多な会話が入り乱れている騒がしい状況で、しかも自分が誰かと話をしている最中に、もともと自分の名前を口にした人のほうには注意が向いていないわけですから、少なくとも「やまも」までは聞いていない、本人の意識としては聞こえていないはずだと考えるのがふつうです。

ここで、「やまもと」の最後の「と」が発音された段階で、はじめて自分の名前だとわかるのですが、このとき、「やまもと」と、すべての語が発音されたあとで、「やまもと」と聞こえることとなり、明らかに時間的なずれ(タイムラグ)があると考えられるのです。

つまり、聞こえた時点ですでに「やまも」は発音されたあととなり、そのあとに「やまも」が聞こえることとなるわけです。もしもはじめからその人の音声に注意を向けて聞いていれば、はじめの「や」が発音された時点で、すでにその「や」が聞こえるはずなのです。

でもこの場合には、「や」が発音された時点では、その「や」には気付いていない(おそらく聞こえていない)、本人は意識していないということになると思います。「や」がはっきりと意識して聞こえるのは、「やまもと」まで発音されたあとということになるのです。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『「意識」と「認識」の過程』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。