市民病院の紹介状を持って訪れたK大病院は広大な敷地に建つゴージャスな空間だった。大理石張りの床に、吹き抜けのエントランス、スケルトンのエレベーター。本館の広い通路には「あじさい通り」「ひまわりロード」と名前まで付いている。

「ショッピングモールみたいね。こりゃあ病室から診察や治療に行くのに歩かされるわ。元気じゃないと入院できない病院、だね」

そう言って和枝が笑った。

この日早速行われたカンファレンスでは、「すぐに手術はせず、腫瘤を放射線で小さくしてから切る」という治療方針が打ち出された。

夜が明けきらない薄闇のなか、すぐそばで和枝の声を聞いた。細く開けた窓からそよ風が入っていた。

「ピアノ弾けなくなっちゃうのかな。ちっちゃい曲しか弾けなくなっちゃうのかな。でも私、ちっちゃい曲好きだからそれでいいもん」

「寝言? 夢を見ているのかな」と廉は思ったが、Tシャツを通して胸の辺りに熱い涙が沁みてきた。和枝は夢を見ているのではなかった。廉の胸に顔を埋めて独り言を言っているのだった。

手術後の生活の変化はどれほど深刻なものなのか想像がつかない。常時鼻から酸素を送るため、小型ボンベのキャスターを引っ張って歩くことになるかもしれない、とも言われていた。

会社に向かう途中、乗り換えの品川駅コンコースには笹飾りがいくつも並んでいた。子どもたちが将来の夢や希望を書いた短冊が鈴なりだ。ふと和枝の声が聞きたくなり電話する廉。

「きょう、七夕なんだね」

そう口にした途端、ぼろぼろ涙がこぼれ、笹飾りの鉢の脇にへたり込んでしまった。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。