【前回の記事を読む】「青い空の中に、私は消え、空と一体になってしまったのだ」

辻邦生(廻廊にて・他)

私は、裏庭に建てたちっぽけなギャラリーに「まあ舎」という名前を付けただけで、誰にも話さなかったし、長い間封印してきた。

簡単に調べただけであるが、『失われた時を求めて』は、記憶を巡る小説であった。プルーストは、意志や知性を働かせて引き出される想起(意志的記憶)に対して、ふとした瞬間にわれ知らず蘇る鮮明な記憶を(無意識的記憶)と呼んで区別している。

(無意識的記憶)の現象は、「マドレーヌ菓子」や「ゲルマント大公邸の前の不揃いの敷石」をきっかけとする「特権的瞬間」の現象なのだという。

マーシャの場合、故郷を喪失した者が郷愁に耐えぬき彷徨を続けるとき、それ自体が霊的上昇にほかならない位相の転換が訪れるのだという。かなり難しい解説ではあるが、苦しみの中にいる人間には、生き続けることによって、死は嘆きとして現存してもいつか喜びの空間に入り込める希望を与えてくれることを教えてくれた。瞬間の中に永遠が開示される世界。

辻邦生の美のとらえ方は、ギリシャのパルテノン神殿を見た時の感動を何度も書いておられるように、魅力的な概念である。

「すべてのものは繰り返される、単なる流転こそが、物の宿命なのだ。しかしこれだけは別だ、このたぴすりの空間は、生まれた時に、自分固有の未来を持ち、自分の宿命を成熟する方向へ歩み続けている、私が、今、これに出会うまで、このたぴすりは、すでに純粋な美しさを(現在)の表面に浮かべるまでの何百年に亘る長い時の空間を歩み続けて来たのだ。おそらく明日再び、これと巡り遇う時、これは、それだけまた稠密な時間を旅しているのではないだろうか。私たちにとって、一日は繰り返しであり、明日に戻ることであるのに、これだけは、自分の新しい時間を、自分の未来と宿命の成熟の方向に向かって、切り開いてゆく。これだけが(与えられた時間ではなく)自分固有の時間を持ち、自分であることに歓喜し、自らの成熟へと永遠に上り続けてゆく。これこそが(美)であり、美の意味であり、美の本質なのだ)」

と書かれてある。

この経験は、玻璃はり(又は瑠璃るり)の内面に似た小宇宙」を自己の中に獲得する経験でもあるのだろうと受け止めた。そして、辻作品の根幹はここにあるように思えた。

小説の主人公、マーシャは、二度特権的瞬間を味わい死んでゆくのだが、二度目のこの一角獣のたぴすりの前で味わった描写には特に共感を覚えた。また、リルケの一本の薔薇はすべての薔薇という、辻邦生の感動が小説の中にちりばめられているような気がした。