第一章 伊都国と日向神話

2.古代ヤマトの軍事的地勢
 

南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。

女王の都する所は、伊都国から遥かに遠い「邪馬壱国」である。女王は伊都国に都していない。伊都国の王が都する所である。bの主語は魏、または(魏が支配する朝鮮半島の)帯方郡である。

(魏は)、「女王国より以北(正しくは「以西」:筆者注)には、特に一大率(いちだいそつ)を置き」、
(魏は)、「諸国を検察せしむ」。諸国(は、)これを畏憚(いたん)す」。
(魏は)、「常に伊都国に治(ち)す」。
(一大率は)、「国中において刺史の如きあり」。

間接支配の軍事制度として、魏は「一大率」を置いた。その場所が伊都国であり、「常に伊都国に治す」軍事態勢であった。魏の軍事力を背景にしていたため、邪馬台国傘下の「諸国」は、「一大率」を畏れたのである。

「諸国」にとって一大率(漢や魏では「刺史」)という官名には、軍事的畏怖と同時に、賄賂による手懐(てなず)け・扱い易さも感じられる。中国における当時の「刺史」は、まさに同じような役回りをしていたからである。

「国中において刺史の如きあり」とは、そんな厳格な監察と甘い賄賂という二重性格をもったものとして、人間的かつ現実的な政治が理解できる一文になっている。魏志の撰者陳寿の苦笑が、目に見えるようである。

さて女王国自体の統治体制は、「投馬国(出雲国)」を筆頭にした国々が、巫女王卑弥呼を共立する宗教国家であった。政治・軍事面では、主として出雲国が女王を支援する体制であり、政教分離国家として機能していた。

しかし卑弥呼が亡くなると、宗教面の共立関係が壊れて、邪馬台国に属する国々は大いに乱れた。政治一本やりの倭国では、まとまりがつかない現実があったのである。

卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。

これらの体制を簡略に図示してみると、以下のようになる。

[図1]古代ヤマトの軍事的地勢および体制

上の図には、基本的な欠陥がある。魏の間接支配力(軍事力支援や関心の度合い)が衰えて来ると、帯方郡からの軍事関与も減退することである。先の卑弥呼が亡くなった時の倭国大乱も、そのような支配力低下の現象として観察することができる。

そのような場合には、政教分離の倭国にあって軍事力に秀でた出雲国が、魏(帯方郡)に替わって、倭国全体に影響力を及ぼすことになる。要するに、邪馬台国の他の諸国に対し、態度がデカクなるのである。

魏の我慢の限界内にある軍事行動なら、「一大率」も見逃すことになるが、限度を超えることが度々あると、魏の直接行動を招来することになる。

すなわち魏が支援する崇神天孫軍の渡海と、出雲軍との国譲り戦の開始である。

『古事記』によれば、出雲軍の元締めは大国主であり、その子事代主と建御名方も主力部隊になっている。一方で、天孫軍の主将は建御雷であり、その本拠地は伊都国である。

本営所在地が分かるのは、建御雷の父の名前によってである。『記』にはその名前が相前後して二つ記載してあり、読む者には親切である。すなわち、天孫軍は伊都国軍のことである。出雲軍に国譲りを迫ったのは、伊都の天孫軍であったことを、神話は語っている。

そしてその神話のベースには、ユダヤ系の神々が隠れているのである。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。