サグラダ・ファミリア

十五日、早朝に起きて「サグラダ・ファミリア」に向かった。ここがバルセロナ訪問の最大の目的だった。

街は木曜日の朝だから、仕事に向かうたくさんの人達が忙しそうに歩いていた。その日は寒気が近づいていたのだろうか、吐く息が白くなるくらいのキリリとした清々しい空気だった。活気づいている街中を、私達はタクシーを捕まえようとタクシースタンドに向かった。

待つ人が数人いるがタクシーはいない。時々やってくるタクシーはいずれも客が乗っている。そんな状況がしばらく続いていたので、私達は焦り始めた。「なぜか」、その理由はサグラダ・ファミリアでは来訪者が多いので入場制限があるからだ。私達が持っているチケットは九時半の入場になっていた。既に九時を回ってしまった。ますます焦った。

こういう時に人は神に祈るのだろうか? 私達も神に祈る気持ちでいたところにやっと空車が来て、今度こそ私達の乗る順番だった。入場時刻直前、無事にサグラダ・ファミリアに着いた。既に入口の周りはたくさんの人達で溢れていた。入口で予約したチケットを係員に見せて、無事に門を潜り抜けた。

大聖堂の入口の前でまず一枚の写真を撮った。建物のすぐ前だから大聖堂全体を背景に撮るのは不可能。テレビやグラビアで見たごつごつした感じの外壁の一部をバックに撮るしかなかった。そのあと大聖堂内に入ったが、その時の感動をどう表現して良いのか分からない。

それは天国、あるいは地上の楽園とでも言うべきなのかもしれない。無宗教の私達だが、その「荘厳さ」とあまりの「美しさ」に圧倒されて立ち竦んでしまった。ヨーロッパ各地の色々の教会を見ているが、それらは荘厳さと同時に「厳粛さ」を感じさせるものだった。

しかし、サグラダ・ファミリアの内部は「厳粛さ」という表現は正しくない。それは、美しく、光に満ちた空間の中に自分たちが存在しているような感覚を覚えさせるものだった。これまで見たことのあるステンドグラスのほとんどは、イエス・キリストの生涯や教えをモチーフに描かれていたが、ここではそれとは違って天国の光の中に私達が立っている。つまりサグラダ・ファミリアのモチーフは、「そこを訪れた人々を祝福すること」なのだろうと思われた。それで十分なのだと言っているように思えた。

見るまでは想像もしていなかったが、見たことでガウディの考えを抵抗なく受け入れることができた(ように思った)。そのモチーフはその後に訪れた「カサ・ミラ」と「カサ・バトリョ」でも見せつけられた。そして納得した。

たくさんの写真を撮ったが、それは感動を思い出すきっかけにはなるものの、その時に私達が覚えた感動を正確に再現してはくれない。世界の多くの画家や芸術家がバルセロナに集ったことの意味を少しばかり理解することができたように思っている。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『一族の背負った運命【文庫改訂版】』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。