義朝が果てた頃、大和では降りしきる雪の中、右手で乳呑児を抱え、左手で少年の手を引き宇陀を目指す女がいた。歩く少年は更に幼い弟と手を繋ぎ寒さに耐えていた。

女は常盤といい曾て都の美女として集められた千人の中から筆頭に選ばれ、近衛天皇の中宮に入る藤原伊通(これみち)の娘呈子(ていし)の侍女になった。そして、宮中の北面の武士であった義朝に見初められて(しょう)となり、二人の間にできた子の長子が今若(この時八才)で、今若と手をつなぐ二男が乙若(六才)、そして胸に抱かれた三男が牛若(一才)であった。

奉公人も付かずに宇陀郡竜門という里に辿り着き、伯父に保護されたが、母の関屋が平家に捕まり、常盤親子の行き先を聞き出すため打擲(ちょうちゃく)されているという話が宇陀まで流れてきたのを耳にして、三人の子を伴い自ら名乗り出た。

詮議は平家の頭領清盛が直接当たり、後難の元になる男児三名を死罪にするつもりであったが、色香に迷わされたか常盤の閨房入りと、僧籍に入れるという条件で男児たちの助命を認めた。今若は醍醐寺、乙若が叡山に預けられたがまだ乳呑児である牛若は常盤の手元に置かれた。

一年後、清盛の女児を産んだ後、清盛は常盤の体に飽きたのか生真面目だけが取り柄の大蔵卿藤原長成に下げ渡した。

常盤と共に左京区の長成の屋敷に移った牛若は、やがて生まれた弟に母の愛を奪われた。他人に囲まれ肉親の情に飢えて鬱々と孤独な日々を送っていたが、十歳になった嘉応元年(一一六九)鞍馬寺の禅林坊に稚児として預けられ、そこで遮那王と命名された。

やがて、鞍馬寺に義朝の子がいると源氏の残党から聞いた鎌田正近が遮那王を捜し出し、父の仇討と源氏再興を目指すよう促した。自分が源氏の血を引き、兄がいることを聞かされた遮那王は正近の言に沿うことで生きがいを得た。

武道には縁のなかった遮那王を、武門たる者の素養として正近は夜毎鞍馬に通って鍛え、遮那王はそれに耐えた。肉親の愛に飢えていた遮那王の心は、顔も知らない父の仇討と、まだ見ぬ兄三郎頼朝への敬慕の思いで支配されていた。同腹の七郎今若が僧全成、八郎の乙若が僧円成になっていることに関心はなかった。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『小説 静』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。