第3章 マネジメントから見た司教団の誤り

2.本論考における私の「立ち位置」

3.司教団の誤り

「憲法九条」「原発」「国旗国歌」「天皇」「防衛」「秘密保護」が、「人間のいのちの尊厳と基本的人権、共通善などにかかわる」と、司教団は考えているらしいのである。

「福音と教会の教えに照らして理解し」と記している。これも不誠実な答えである。自分の言動が教えに従って正しいと主張するなら、人は、普通にはその根拠の当該箇所を示す。

「教会の教え」とは、「カテキズム」とか、「社会教説綱要」とか、「現代世界憲章」がそれに当たる。それらのどの部分が司教発言の裏判になるのか、それを示して下さいと質問しているのである。

それら「教会の教え」の中に私たちは、司教団発言に整合するものを見出すことができない。のみならず、むしろ逆を知るのである。

[カトリック教会のカテキズム]は、

2265 正当防衛は単に権利であるばかりではなく、他人の生命に責任を持つ者にとっては重大な義務となります。共通善を防衛するには、不正な侵犯者の有害行為を封じる必要があります。合法的な権威を持つ者には、その責任上、自分の責任下にある市民共同体を侵犯者から守るためには武力さえも行使する権利があります。

2310 このような場合、政治をつかさどる者には祖国防衛に必要な任務を国民に課す権利と義務とがあります。職業軍人として祖国の防衛に従事する人々は、国民の安全と自由とを守るための奉仕者です。自分の任務を正しく果たすとき、共通善ならびに平和の維持に真に貢献するのです。

「共通善」という言葉をどう理解すれば良いか。私の考えでは、「基本的人権」の確保であり、「隷従の排除」である。

日本国憲法であれば、

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第29条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

そして前文の、
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

この「生命、財産、隷従の排除」が、「共通善」の根幹であり、日本国憲法が政府に要求する根本の責務である。それに対して、[カトリック教会のカテキズム]は、

2265 正当防衛は単に権利であるばかりではなく、他人の生命に責任を持つ者にとっては重大な義務となります。(後略)

2310 このような場合、政治をつかさどる者には祖国防衛に必要な任務を国民に課す権利と義務とがあります。(後略)

「他人の生命に責任を持つ者」「合法的な権威を持つ者」「政治をつかさどる者」とは、普通に読めば政府であろう。

憲法九条がもし完全な防衛力放棄、完全非武装を求めているものならば、日本の司教団はむしろカトリックの教え故に、憲法九条を不備なものとして政府に改憲を求めなければならない(そんなことをして下さいというのではない。それは我々の役割である。話の筋として私は記している)。

ここの部分は、カトリック教会へ近づこうとして逡巡なさっている未信徒の方に、是非知っていただきたい。カトリック教会の政治社会的教えは、きわめて常識的なものである。

それは2000年の歴史の知恵が詰まっているからだ。だが、昨今の「司教団発言」は、ほとんどそれに反している。その意味で、間違っている。何年先か何十年先か、司教団は変わるだろう。

良い方向(常識的な方向)に変わると思う。イエス・キリストのみ教えは『世界の宝』である。司教団発言など無視して、教会に足を踏み入れてほしい。そこで多くの、素晴らしい、誠実な神父様方を知ることができるだろう。

おそらく、私がそうだったように、人生が良い方向に進み始めると思う。私は確信をもってお薦めする。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『マネジメントから見た司教団の誤り』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。