自分の住んでいる町に安心してかかれる病院がないということは、何と悲しい、屈辱的なことではないか。この問題を市民運動として展開しようと何人かの人に話してみたが未だ実現していない。市会議員の中には警察署をわが町にという人はいるが、安心してかかれる中核病院をわが町につくろうと率先する人がいるとはあまり聞かない。

町の有力な人々はそれぞれの人間関係などによって、いざという時に自分だけはいい病院にかかれるという担保があるのかもしれない。そのような人脈のない普通の市民にとっては、安心してかかれる病院の存在は何ものにも代えがたいものであるが、その実現はそう簡単なことではないのかもしれない。クリアすべき問題が少なくないからである。

それに最近話題になった千葉県のC市立総合病院の閉鎖の例などを見ると総合病院が三つもあるなんて贅沢ではないかなどと言われかねないのである。いい病院どころか、現在の総合病院が絶対に閉鎖されないという保証はないからである。

そこでC市立総合病院の閉鎖の原因を考えてみると、(一)関連大学などの医師派遣ルートの確立、(二)必要な医師の確保による診療体制の維持、(三)病院を維持存続する財政的裏付けなどの失敗が主たる原因のように思われる。

総合病院のない町から見れば贅沢かもしれないが、われわれとしては何としても安心してかかれる総合病院が欲しいのである。医療崩壊が叫ばれる中でいい総合病院を求めることはドンキホーテのように現実無視の向こう見ずな行動なのだろうか。

評判のいい病院には地域医療の理想に燃える医師や院長の存在などを見聞することも多いから、いい病院というのは例外的な存在でしかないのだろうか。確かに、普通の医師をそろえることさえできなくて病院を閉鎖せざるを得ないということが少なくないのだから、いい病院をつくることは至難の業であるらしい。

素人が知恵を絞ってみてもいいアイディアはなかなか出てこないが、右記三つの条件のほか、長期的な問題としては医師と住民(患者)双方の意識改革も、いい病院づくりのためには忘れてはならない。しっかりとした職業倫理の持ち主が医師になり、住民は医師を信頼するという基本的な人間関係の確立である。

金がもうかるから医師になり、付け届けの多い患者をエコひいきするというような世界があるとすれば、医師本来の権威の回復はあり得ないであろう。わが町の執行部や住民の中にも私と同じような考えの人がいるようなので、そのような方々と協力して、安心してかかれる中核的総合病院が実現することを夢見ている。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『雑草のイマジネーション』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。