しかしながら外国人の書いている日本語はかなりの出来栄えなので、これだけの文章にするための指導と話ことばの指導の両立が可能かどうか心配になるほどである。

だれしも自分たちの文化を誇らしく思うのは当然のことだが、それを「他文化」に広めようとするときにこそ異文化コミュニケーションの難しさが発生する。

神栖の先生方は、日本語教室では日本で生活する外国人が日常生活を送るにあたって困らないような最低限の日本語を指導することがまず第一であるという。

まず日常生活のための「サバイバル日本語」を教えるべきであって、文集を作っている余裕はないという考え方である。神栖の先生方の教室運営の考え方、いわば神栖文化にももっともなところがあり、波崎文化の視点によって神栖の先生方は非協力的だと必ずしも即断できないところがある。

ところでKIFAの日本語講師の先生方は日本語を教える一方で、外国人の各種の悩みや相談に乗ってあげることも避けては通れない現実の仕事になっている。

むしろ実際にはこのような先生方の日常的な活動が地に足の着いた国際交流の大きな役割を果たしていることは公式にも非公式にも確認されている。

またKIFAでは多文化共生の勉強会も実施しているが、多文化共生は「言うは易く行なうは難し」のところも多い。『かけはし』に対する考え方の違いも多文化共生の難しさを示している。

国際化といおうが多文化共生といおうが、本質は異なる価値観を許容し、共存共生することであろうから、まずは「自文化」を押し付けることを控え、共生が強制にならないためにはまずは「棲み分け」から始めることも解決策の一つかもしれない。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『雑草のイマジネーション』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。