思い返せば桜の散る頃から和枝の体に異変の兆しはあった。最初は声が出づらくなった。和枝にとっては声も大切な商売道具だ。「ピアノを弾くこと即ち歌うこと」なので、小さな子どものレッスンでは歌にも時間を割く。

伴奏を付けながらお手本を示し、さらに一緒に声を出す。のど飴が手放せず、キッチンにもピアノの上にもいつも缶が乗っていた。今回の声枯れはストレスが原因だろうと和枝自身は考えていた。風邪でも花粉症でもなく、体調も少しも悪くないので。まあいつものことかな、と。

四月中旬頃から咳と痰が酷くなり始めた。夜中に隣のベッドの廉まで目を覚ますほど激しく咳き込むこともしばしばだった。街の漢方薬局で、ドロリとした真っ黒い咳止め薬を処方してもらったりもしたが効果は芳しくない。声枯れも良くなる気配がなく、そのうち咳をすると背中の左側面に痛みが走るようになった。この時点で呼吸器内科を受診していたら、あるいは良い方向に舵を切れたのかもしれない。

でも二人でいろいろ情報を集め、喉の病気に明るいと評判の新百合ヶ丘の耳鼻科を選んでいた。喉の緊張を緩める薬を処方され一カ月様子を見たが、状態に変化が見られないため、そこで初めて呼吸器内科の医院を訪れた。そしてCT画像を見た医師から肺がんの疑いを指摘されたのだった。

早速、がん拠点病院である市民病院での検査に移った。二週間後、呼吸器内科の担当医師に呼ばれ、気管支ファイバースコープ、脳のMRI、PET検査の結果を受けた所見説明を聞かされた。

「左胸に8センチ大の腫瘤があります。良性か悪性か今は分かりません。ただ、ぴったり心臓の隣にいるんです。これでは経過観察というわけにはいかなくて、すぐに手術で摘出する必要があります。手術となれば、心臓外科の助けも必要になりますし、K大学循環器呼吸病センターなどへの転院をお勧めします」

続けて医師からは、

「ただ、脳や他の臓器への転移は今のところ見られません。仮に腫瘤ががんだったとしても、大きさが問題というよりも転移の有無が重要になってきます」

とも言ってもらえた。グレーゾーンには違いないが光明は見えた。和枝はK大学病院への転院を決め、市民病院から紹介状を、先方の呼吸器外科と呼吸器内科宛に書いてもらった。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。