この日の午後は待ち時間になったので上海の公園、豫園へ行く。僅か二万平方メートルの面積であるが、楼閣、池、橋、築山、奇怪な石等、明・清朝の庭園建築の趣を如実に示しており驚いた。上海は中国第二の都市だけに、街には人の波、自転車の軍団、すし詰め状態のバスが行き交い、中国のすさまじい活力を象徴しているようである。

十六時三十分の列車にて我々は南京へ向かう。外国人のみの一等車(軟座車輛)ではあったが、やや不潔な昔ながらのものであり、経済の遅々たるのを感じた。大陸の夕日は長く、真っ赤に染まった地平線の風景はさながら一幅の絵のようであり、退屈な列車の旅を慰めてくれるのに十分であった。

定刻の二十一時七分南京駅に到着し、実に四時間四十分の列車の旅を終えた。ホームに降りた時、当クラブが二十五周年を迎えた際に団長として来日された徐栄根先生以下多数の方々が出迎えて下さったのには驚いた。特に顔なじみである社本会長や、野村氏とは抱き合っての歓迎ぶりであった。

南京友好訪問の第一歩に感激し興奮さめやらぬ中、二十二時三十分、宿舎の金陵飯店に到着。遅い夕食をとり中国での初日の眠りについた。

十六日は、今回のライオンズクラブ交流のメインデイであった。以前からわがクラブは、全国にさきがけて、日中の少年少女の親善に向け数年間にわたり準備し、両国小中学生の選抜メンバーによる合同器楽演奏会を、南京・名古屋の二都市で開催するはこびとなった。特に姉妹都市の南京に重点を置き、先の大戦後の最大の課題であった南京市街大虐殺事件の和解、親交を「一隅の光」として、進んでいきたいという主旨である。

演奏会実現は、名城クラブの社本宮明会長、野村貢、守田利弘両幹事の功績であるが、当時、新米だった私もアクティビティ部会長として、音楽演奏における細部の仕上げについての責任者として走り回った。

十一月十六日は七時半朝食、八時半出発と朝から厳しいスケジュールだった。午前の観光は中山公園、孫文先生の墓、中山陵の参拝、ついで明考陸、夫子廟と巡った。悠久南京の歴史にこと欠かない偉大な遺跡の前に、疲れも忘れてシャッターを切った。

十二時、秦准風景内にあるレストランにて南京市主催の歓迎レセプションに臨む。副市長の沃丁柱先生をはじめ南京市人民政府の要人や文化交流協会要人などの熱烈な歓迎に感激した。席上まず沃副市長の挨拶があり、次いで守田幹事より返礼の謝辞、中村市次氏から江蘇者長宛のメッセージ、南京市長宛の名古屋市長からのメッセージを読んで手渡し、次いで山内一生氏の工芸和紙、赤富士額を南京市へお土産として贈呈した。宴会は和気あいあいのうちに乾杯(カンペー)を重ね、南京料理を満喫した。

午後は有名な中華門を見学した。南京城周囲三七キロの中では最大で、奥行き一三〇メートルの要塞でもある。

十五時、長江大橋を参観する。上段高速道路、下段鉄道橋の二段鉄道で自力工産が自慢とのことだ。確かに十年前までは考えられなかった技術である。

十六時に児童劇場にて、習年一月に来名の紅花芸術団の演奏を鑑賞した。約一時間の一所懸命な熱演ぶりに盛大な拍手を浴びせた。約一〇名のメンバーが、二胡とか琴の民族楽器の音色を織り交ぜ、革の衣裳でシルクロードなど中央アジアの香りのするメロディーを奏でた。面白かったのは男児も顔にオシロイを塗って登場したことである。芸術へ向かっている演技の過渡期を感ずる。終演して、来名を歓迎することを約束して、一旦ホテルへ帰る。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『21世紀の驚くべき海外旅行II』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。