【前回の記事を読む】異国船座礁で生存者ゼロ…「面倒なことは避けられた」と安心

異国船難破

隼人は筆頭家老に就任してから海防のことが気になりはしたが、具体的にはいままで通りを踏襲するに留まっていた。河北藩は日本海に面しているので、海防のために六か所の番所と見張り台を設けている。ことあるときは番士が舟で対処できるようにしているが、なにしろ海岸線が長い。点だけの防衛線なのだ。

ただ、これまで、番士の海難事故が一件と、あとは漁民の遭難事故くらいしか事件は起きていない。幕府の意向で異国船との接触は禁止され、さらに打ち払い令まででているが、いままで異国船を打ち払うような事態に陥ったことはなかった。

だが、いまの岩淵郭之進の報告で、坊の入り江で難破して座礁した異国の帆船は、四十門もの大砲で武装しているという。武装しているということは、それと戦うこともありうるということである。そんな異国船との戦いを想定したことがない隼人は、海防での危機管理能力が試されていることを強く感じた。

幕府が外国との交易を禁じて久しい。それでも、日本の近海には少なからぬ異国船が行きかっていた。船は新鮮な水と食料が必要で、そのために船員が上陸することがないわけではなかったが、幕府は異国人と接することを許さず、命に反したものは罰せられたのである。

幕府が外国との交易をオランダ、中国に限ったのは、戦国時代から続いた日本に不利益なことがあったからだ。

長く続いた戦国時代、日本ではあちこちで戦があった。戦で実際に戦うのは雑兵で、彼らは駆り出された農民が主体である。雑兵は戦に勝っても恩賞などもらえないから何をしたかというと、村を襲っての略奪、婦女子の凌辱、さらには人を捕まえて売ったのである。要するに奴隷をつくったのだ。

そこに交易のために頻繁に日本に寄港していたポルトガル船が、それらの奴隷を買い、ルソンなど海外に運んだ。遠くにはメキシコまで運んでいる。

ポルトガル船は宣教師を連れてキリスト教の布教と称しながら、実際は奴隷売買をしていたのだった。天下を統一した秀吉はこれを知って、ポルトガル船の寄港を禁止した。そこにはオランダの思惑があったのもあるが、徳川幕府も秀吉に倣い、さらに交易する港を長崎だけと制限した。

江戸幕府は外国との交易を禁止するばかりでなく、外洋を航行することができる大型船の建造も禁止した。それ以来、日本では六百五十石前後の一枚帆の弁財船をつくるのがせいぜいだった。