私が辻邦生の『廻廊にて』を読んだのは、そんな経験をした後だった。この小説は、ロシア生まれの女流画家・マーシャ(マリア・ブシレウスカヤ)の孤独と喪失と死に脅かされ続けた、薄幸の人生の霊的上昇の過程を綴った小説である。

芸術と死を基調とした、暗い小説なのだなぁと読み進めていくうちに衝撃が走った。あの日味わった瞬間と同じ描写に出会ったのだから。

「あの浄福の若い娘が一角獣に守護されている図柄は、万物の照応する一点―〈美〉―に護られている人間を象徴するように思われました、その時、私は激しい感動とともに、ある光が走りすぎるのを感じました。その時、突然、私は自分が全キ自由になっているのを感じました。歓喜に充ちた自由となって、私は万物と一つになっていました。私は消え、そして〈私〉がその時初めて存在し出したのでした」

という文章に出会った時は、「本当にその通りだ!」と心の中で叫んだ。

私は有名な一角獣のタペストリーすら観ていないし、空だったので状況はかなり違う。が、永遠の空間が存在しその空間はどんなものにも代え難い、恍惚としか表現しようのない空間で、記憶として決して消えないものらしい。私も消え、一瞬無になり、今まで味わったことのない永遠とでも呼べる領域の中に私が存在したのだから……。

でも我に返った時、そのような一瞬は消えていた。畏友と言わしめたフランス文学者・清水徹の解説が、また私を魅了した。

私の味わった瞬間は、「特権的瞬間」と呼ばれ、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に多くを担っていると書いてあった。プルーストは、二十世紀のフランスの文豪であるが、膨大で難解な小説を読みこなす能力を持ち合わせていないので、無理だと諦めていた。また、あまり関心もなかった。それなのに、私の経験が『失われた時を求めて』に関係していたなんて信じられなかった。

なんてことだろう……。しかし、この経験も人様にわかってもらえるとは思えなかった。神秘体験と同じように、日常を生きる多くの人たちにとって、超時間的経験、永遠などは無縁の世界であり、虚しくなるだけだと思っていた。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『永遠の今』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。