幕府の方針で異国人との接触は禁止されていたし、言葉のわからない異国人などと関わりたくないとの思いが安堵に変わって、難破船のことを海防方に報告しなければと、なかを見ることなく舟を返させた。実際は、舟に不慣れだった階は、で舟が漕がれるたびに舟がゆらゆら揺れるので、すぐに船酔いしたのだ。

階は友左衛門に必ず海防方の役人が来るから、それまで船に誰も立ちいらせないようにと命じ、家士を見張りに残した。

代官所にたちかえった階は、まず次席家老の脇坂兵頭の屋敷に人を走らせた。坊の入り江に大きな異国船が座礁し、それも武装しているとなると、坊の入り江にたくさんの役人が来て身動きが取れなくなると考え、その前に脇坂に知らせておけば万事心得て対応してくれると、一足先に知らせたのだ。階太夫郎は勢戸屋が坊の入り江で抜け荷をしているのに少なからず便宜を図っていたのだ。

その一方で、友左衛門のところに見張り役で残した家士から、村人のなかに船に入った者がいて、さらに船からいろんな物を略奪したとの知らせが入った。

階は自分の責任を問われるかもしれないと烈火のごとく怒って、すぐさま友左衛門に回収を命じ、それらを代官所に持って来させた。

暮れ六つ(春先だから午後七時頃)頃、家老の岩淵郭之進は難破した船の絵図を持って城代家老の屋敷を訪れた。城代家老の新宮寺隼人とは小さいときからの道場仲間で、もう一人仲間に、大目付の陣内与左衛門がいて、いまでも暇ができると三人で砂町の玉木屋で酒を酌み交わしたりする。

「どうしたのだ」

岩淵は、まず船の絵図を開いて見せた。

「昨日の嵐で、坊の入り江に異国船が座礁したと云う。これがその絵図だが、大きさは一万石(千屯)を越えるというぞ」

絵図には墨で簡単に三本マストの帆船が書かれていた。実際はもっと大きく一万四千石(千四百屯)だった。絵図は吉三が書いたものである。

吉三はたまたま薬売りの巡回で吹に来ていた。嵐にあって足止めをくい、異国船が座礁するのにいきあったのだ。次の日の朝、入り江は嵐がうそのように収まって穏やかになり、友左衛門が難破船の様子を見に、舟を出すというので乗せてもらった。

生存者がいないのを確かめてから、岩淵に報告するために、城下に戻った。坊の入り江から城下まで五里、着いたのは異国船が難破した翌日の夕刻のことである。

「問題は、この船が大砲で武装していることだ」

岩淵は吉三が描いた絵図を元に大砲の数を説明した。