「和木様とおっしゃられますと、お父上は重郎左衛門様ですか」

重太郎が口に出さずに頷くと、感激した面持ちで、「それは、それは。重郎左衛門様にはずいぶんとお世話になったのでございます」と気さくで良い相談役だったと話した。和木重郎左衛門は河北郡、二河郡、蕪木郡の海岸沿いの農事に関わる郷方廻りをしていて、時間を見つけては、春先の田植え、夏の間の稲の生育、収穫時の様子などを見に各村を回っていたのだ。

それで、その地方、その地方の地形による天候の影響や稲づくりの違いなどに精通するようになり、問題点を浮き彫りにした。

特に、海浜地区の塩害が問題だった。日本海沿岸部は、冬の間の強い北風のために海水の飛沫が霧状になって陸深く降り注ぎ、ひどい塩害が起きた。重郎左衛門はそれを防ぐために、海岸に沿って防風林となるように植林することを勧め、苗木の費用などを藩の農事方に掛け合ったりしたのだ。

また、吹の村にも巡回に来て、村で一番苦労していた水の問題を解決した。村長の話では、昔は五町ほど離れた谷川から水を運んでいたという。友左衛門は囲炉裏に薪をくべながら話を続けた。

「それを重郎左衛門様の指導で、木をくり抜いて樋(とい)をつくり、それを繋いで筧(かけい)とし、谷川をはさんだ先にある湧水を村の近くまでひいたのです。一番大変だったのは谷に筧を渡すことでしたが、藤蔓でつり橋をつくって、それで谷を渡したのです。いまでは水の心配がなくなって、おかげさまで、畑もつくれるようになりました」

さらに、重郎左衛門は金崎港の漁師から、古くなって廃棄しようかという舟と網をもらってきた。それまでは素潜りして、ヤスを使って魚をとっていたが、地曳網ができるようになって村人総出で網を引き、取れた魚はみんなで分けるようになったのだという。重太郎は家では寡黙だった父親の知らない一面を知って嬉しかった。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『祥月命日』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。