他人にお浄めするには、三日間の研修を受けなければいけないとのことで、四月の一回目の研修を受講した。当時、希望者があれば月二回の研修会が開催されることもあった。

是からのち何か月か、昼間は阿倍野道場での月並祭に参加し、夜は阿含宗の例祭に参加するという状態が何か月か続いた。

阿倍野道場の月並祭と、京都での例祭が同じ日に執り行われたからである。

六月の例祭だったろうか、管長の経典の解説のさなか口調が突然変わったのである。

先月の例祭で、経典の最初の四文字、如是我聞について三十分くらい話された。

今月も如是我聞について話され始めた。

是までの例祭での経典の解説、講義は概ね二時間ほど話された。まだ始まって間のない頃少しの沈黙ののち、たかが真光如きにと言われ、また少し沈黙ののち、聞きなれた口調に戻り、他の教団に属し、此処に学びに来るのはよろしい。当阿含宗にいながら、他の宗派に籍を置くことはだめだ。どちらか一つを選びなさい。

是だけ言うとまた、講義に話を戻した。

残り二時間近くを身の置き場がなく、さりとて途中退場できる状況でもなく身の縮む思いで過ごした。

真光で研修を受けると、おみたま、を授与される。これを首に掛けていないと手かざしはできないと教えられている。おみたまからは光が出ていると教えられている。これまでに管長の講義の中で、修行の進み具合でその人を包む光、オーラの色が変わってくると話されたことを思いだした。管長には、おみたま、の光が見えていたのだと思い知らされた。

もう一つの理由 縁側にて

私が中学二年の初秋のときのことである。

重い学生鞄を提げ、石が剥き出しになり曲がりくねった急勾配の道を、本を読みながらやっと我が家に辿り着いた。通いなれた道である。足元は見なくても何処に石が出ていて、何処に足を掛ければいいか足が覚えていた。

最初、いつもと違うと思ったのは、いつも門屋の日当たりも良い石垣上で、私の帰りを待っている猫のたまが、今日はいなかった。門屋といっても門は無く、ただそう呼んでいるだけの田舎の百姓家である。

牛小屋、堆肥舎、納屋、蔵、母屋、細工場まだ幾つかの建物がある。石垣に張りつくように、横に長い屋敷である。

たまはいつもは私が帰るのを待っていて、足元にまとわりついて母屋の土間までついてくる。

四、五匹の出汁ジャコを取り与えると、お礼を言うかのように、また足にまとわりついてからいなくなるのが常であった。

今日は、たまがいない。

こんな日もあるわな、程度にしか思わなかった。

縁側に座り好きな本を膝に置き、遠くに視線をやると不思議なことに気がついた。

陽は西の山に近づいていたがまだ夕暮れには時間がある。

急な山の中間ぐらいにある私の家の前にはのどかな段々畑や田が広がり、百メートルぐらい先には村の御堂があり、田畑を耕す大人や、御堂には賑やかに声をあげて遊ぶ子供たちが沢山いるはずである。

今日に限って、視界の中には人が一人もいない。耳を澄ますと、先ほど通ってきた牛小屋には黒牛一頭、乳牛四頭、堆肥舎には子牛が一頭、父か兄が近くにいるときは、広場に二三頭ずつ交代で出されているが、今日は全部牛小屋に繋がれている。

暇な牛は飼い葉桶で首を掻いてカタカタ音をさせたり、鳴き声あげたり、何等かの音がするのであるが、今日は全く音がしない。耳を澄ましてみても何も音がしない。緊張感も長くは続かない。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『市井の片隅で』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。