中部地区の普通科高校

昭和62年4月、人事異動で同じ中部地区の全日制普通科の高校へ。2校目となるこの学校は、10学級規模の巨大マンモス校だった。そして、この学校こそが、私の教員人生の方向付けをしていく職場となった。

私はこの学校に10年間勤務し、校内的には学年を2期連続6年間担当するとともに、進路指導主任や教育課程委員長などを務め、また対外的には教育委員会や文部省〈注:文部科学省の前身〉の専門委員などを経験した時期でもあった。

学校大好き人間 ~すべてが学校中心に回っていた~

この当時の私は、「研修日」にも出勤し、休まないことにこだわる“学校大好き人間”だった。研修日というものについては、序章で触れたところであるが、要するに、その頃の都立高校には、週に1日“研修”という名のもとに、学校に勤務しなくてもよいという日があった。

当然、その日の授業は組まれていないので、多くの教員は出勤しなかった。自宅や図書館、大学などで研修を行っていることになってはいたが、実際のところは、正直わからない。

一方、当時の私にとっては、すべてが学校を中心に回っていたし、何よりも学校が大好きだったから、研修日でも学校に出勤していた。

そして、学級担任を持っていた時は、担任が研修日で不在日は、通常、副担任がホームルーム(HR)などに出向き、クラス生徒への諸連絡等の担任業務をカバーするのが常であったが、私は一日たりとも副担任に任せることなく、毎回HRに行って生徒の顔を見ることにしていた。

初めの頃は、生徒は研修日なのに何でうちの担任は毎回来ているのかと、訝しがっていたものだが、そのうち何も言わなくなり、来るのが当たり前のような顔をしていた。また、勤務時間を毎日超過して、夜の9時、10時まで勤務していることが多かった。

警備員には、毎日、いつも同じ者が遅くまで居残っているものだから、煙たがられていた。そして、土曜日や日曜日にも、部活指導でもないのに、朝から出勤して社会科室に籠もり、教材プリントの作成や分掌業務を行うこともしばしばであった。

警備員は、休日なのに余計な仕事が一つ増えるようで、いい顔をしなかった。それでも、学校が好きで好きでたまらなかった。なぜか学校にいるととても落ち着いた。当時の私には、学校以外のことは考えられなかった。

余談ではあるが、デスクの引き出しには、タオル、髭剃り、歯ブラシなどの生活必需品が常備してあった。