第2章 木はその実でわかる

「1984基本方針」は次のように宣べている。

1 .私たちカトリック教会の一人ひとりが、宣教者として、まだキリストの食卓を囲んでいない人々に信仰の喜びを伝え、より多くの人を洗礼に導き、彼らとともに救いのみ業の協力者となる。

2 .今日の日本の社会や文化の中には、すでに福音的な芽生えもあるが、多くの人々を弱い立場に追いやり、抑圧、差別している現実もある。私たちカトリック教会の全員が、このような「小さな人々」とともに、キリストの力でこの芽生えを育て、全ての人を大切にする社会と文化に変革する福音の担い手になる。

前章で紹介した「前四つの指針」に司教団から出された指針の、テーマは二つある。「宣教」と「社会の福音化」である。

① 1972年6月 『社会に福音を』

② 1976年1月 『日本における宣教について』

③ 1979年6月 『日本の社会の福音化を目指して』

④ 1982年3月 『洗礼の恵みを一人でも多くの友に伝えよう』

②④は「宣教」が、①③は「社会活動」がテーマだった。しかし①③においても、「宣教」が核心だった。「宣教」=福音を人に伝え、それを通じて社会を福音化するのである。

影響を社会に及ぼすためには、どうしてももっと多数の仲間を必要とします。ですから、洗礼の恵みを一人でも多くの友と分かち合い、社会のために生きる仲間をふやしてゆくために、これまで以上の祈りと犠牲、熱意と工夫が、今、求められているのではないでしょうか。(④1982年3月 『洗礼の恵みを一人でも多くの友に伝えよう』)

宣教活動教令は「すべてのキリスト者は、自分の生活しているその場所で、模範的生活とことばのあかしとをもって、受洗に際して身につけた新しい人と、堅信によって強められた聖霊の働きを表さなければならない」という表現をもって、キリスト者の生活のあかしこそが、すべての宣教活動の根底であることを力説しています。確かに、キリスト者の模範的生活のあかしなしには、どんなことばの宣教も力を持ち得ないのです。

(中略)

といっても、キリスト信者の心に、強い信念と希望がないならば、だれも、私たちの希望の理由を尋ねはしないでしょう。ですから、すべてのキリスト者が、キリストの福音こそ、個人にとっても、現代社会にとっても、絶対に不可欠な良いおとずれであることを確信する信念の人となれるように、神の恵みと導きを心から祈るものです。(①1972年6月 『社会に福音を』)

この「宣教」と「社会活動」を、「1984基本方針」は、並列に置いた。流れからして一見自然だし、この時点で違和感を持った人は少ないだろう。社会活動で語られている言葉は、教会の教えに矛盾しない。形としては「前10年4文書」を一つにまとめただけである。

しかしまったく別の物になった。「宣教」と「社会活動」は同列のものではない。「宣教」し、信徒が広がれば、「社会」は福音の教えからしてそのようになる。社会活動(社会の福音化)は「宣教」によって実現する。それが「4文書」の構成だった。それを並列にした。そして、「NICE1」が開かれた。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『マネジメントから見た司教団の誤り』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。