川端康成の眼

私はたくさんのアルバイトをしたが、その中で駸々堂という書店が一番長かった。私が働いていた三条大橋店は、一番小さくて家庭的な書店だった。

当時、テレビで流行していたアニメ番組の『みなしごハッチ』のハッチに似ているとかで、私はハッチと呼ばれていた。夕方出勤すると「ハッチの分も取ってあるよ」などと言われ、クッキーやお煎餅が置いてあり、温かい場所で、私はみなしごではなかった。

その書店に、川端康成がやって来たことがあった。昭和四十六年十二月の暮れ近くの夕方の時間だった。一目で川端康成だとわかった。何しろあの目力のあるギョロリとした瞳を持つ、ノーベル文学賞を受賞した時の人なのだから。たぶん、カシミヤだと思われる高価そうな黒のコートを着て、黒のマフラーをしていた。想像していたより大きな人だった。

世界が誇る著名人であるはずなのに、今まで誰にも感じたことのない、黒い、悲しみのオーラ(?)、一種の濃密な雰囲気を漂わせ、編集者らしき若い女性五人と一緒に、お店にやって来たのだ。どの女性も皆美しく、会ったこともないような知性が感じられた。こんな機会は滅多にない。私は急いで店長に断わり、白い日記帳を手にしてサインをもらうことだけを考え、様子を伺っていた。

あの時、川端康成は静かに考えに耽っているような気がした。他の来店者はなく、店の中は静まり返り、並べてある本をじっくりと眺めていた。

後ろ姿がひどく寂しげで、悲しみを湛えた一人の人間が漂わせている場所だけが特別だった。その時の心の裡に去来したものが何であったか知る由もないが、編集者の方々も気遣い誰もが黙っていた。

それなのに、私ときたらなぜあんなことをしてしまったのだろう。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『永遠の今』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。