2008年

経営者は悪者か

二月に入り相変わらず曇りときどき雨の暗い冬空が続いているが、少しずつ日が長くなりつつある。午後六時でもまだ明るさが残るようになった。

そういえば二年前の今頃フランスに赴任したのであった。あれから二年か、あっという間だったなあ。

私は会社で対労働組合の会社側責任者ということになっていて、毎月開催されるCE(企業委員会、これは日本では労使協議会のようなもの)やDP(従業員代表制度、これに似たものは日本では存在しないが、ある種の従業員の苦情処理委員会)、そして毎年の賃金交渉に出席しているが、日本の労使協議や賃金交渉と決定的に異なるのは、資本家対労働者という階級闘争的構図があるかないかの違いであると言ってもよい。

フランスの新聞の記事(日本語版)に“経済教科書の「偏向」議論、教育相は鑑定作業を依頼”というのがあった。「高校における経済の教科書を巡っては、資本家と労働者を対決的に捉え、企業経営者を悪者に仕立て上げるような偏向した内容であるとした批判が以前からある……」ことについての記事だ。

日本で教科書問題というと第二次大戦時の日本の中国や韓国に対する侵略や虐殺問題の責任や真偽に関する記述が問題になっている。だがフランスでは企業経営者を悪者にすることが問題になっているというのだ。今の日本ではちょっと考えられないのではないだろうか。

もちろん例えば食品の偽装問題などで企業の責任が問われてはいるが、資本家対労働者という文脈ではない。フランスでは企業経営者=資本家は労働者を搾取し、自分のふところばかり肥やしている悪者だという意識が少なからず国民の間に存在するという。

六〇年代までの日本では労働者の資本家に対する階級闘争という視点があった。だが、戦後の荒廃から西欧先進諸国にキャッチアップするためには労使ともに協調して力を合わせなければならないという背景があったし、資本市場の近代化で資本と経営の分離(いわば社長もサラリーマンのひとりだというような)の進展や、経営者が決して自らの資産を築こうという欲得だけでない倫理性を持ち合わせていたこと(当時の財界トップの土光敏夫の私邸を見た外国の使節団がそのあまりの質素さに驚嘆したエピソードなど)、また市場競争は労働者を搾取する悪徳経営者の存続を許さないという視点が日本社会を成熟させた。

そして、資本主義経済において社会主義が志向した経済的平等性を実現したのが日本の戦後経済の特色だった(社長と平社員の給与の格差の小ささに象徴される)。その結果、資本家対労働者の階級闘争という言葉は死語になった。それが行き過ぎて組合はすっかり牙を抜かれ、労使の癒着、もたれあいとなってしまっている面は否めないが。

※本記事は、2018年10月刊行の書籍『ブルターニュ残照』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。