帰りのバスの中で、私はぼんやりと車窓から秋の大和の景色を眺めながら、もう一度この地で人生をやり直そうと誓った。

当時、会津から関西に進学する子はほとんどいなかった。

進路に関しては、東京の短大を勧める担任の先生と言い合いになったりした。

父と母は特別反対はしなかった。言い出したらきかない子だと諦めていたのかもしれない。私の性向の中に、ある種の激しさと強さがあることを父は幼い頃から感じ取っていたような気がする。受験も一人だったし、下宿は学生課で探してもらった。高校まで使っていたものはほとんど捨てた。当面必要な衣類だけを持ち、新しい自分に生まれ変わりたいと思う気持ちだけが強かった。寂しくはなかった。

それよりも、新しい居場所を見つけた喜びで満たされていた。

当時を振り返ると、自分を変えようとする時、人はエロス的な感情に襲われるものなのかもしれないと思う。

焦がれるような思いを抱え、十八歳の私は京都に向かったのだから。

そして今思うことがある。人生は冒険なのかもしれないと。この冒険は決して悪くなかったのだから。五年間過ごした京都は、私にとって様々な人たちやものとの出会いに恵まれた時期で、有り難い青春の街であった。

後に西田幾多郎の『善の研究』を読むようになって、「純粋経験」「ポイエシス」という言葉を知った。『善の研究』は今でもさっぱりわからないが、若王寺から続く哲学の道をよく歩いた。特に鹿ヶ谷の法然院が好きで、秋の紅葉が見事だったことを覚えている。

あるいは、「内的促し」というものだったのかもしれない。

小さな存在である私が、自分でも気づかない形で、自分の知らない文化が自分を越えて働いてくる感じ。

あの古い古都の文化が、私を待っていて、私は何かと出会い、私自身と深く結びつくような期待感があったような気がする。

祖母の家は焼失してしまったが、奥座敷の窓側に日本刀と中央に大きな熊の毛皮が、野生の神様のように君臨していた。あの部屋に入ると不思議な気持ちに襲われた。

大きな熊の存在も、私に何ものかをもたらしたような気がしてならない。

一人の人間の内面は、案外繊細で多面的だと思う。私の中には色々なものが混然としていた。後に「人間とは何か」を問う、京都大学の霊長類研究所との有り難い出会いや、フランスの社会人類学者・レヴィ=ストロースの『野生の思考』につながるなんて思ってもみなかった。振り返ると、小さな内面の旅の始まりでもあったような気がする。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『永遠の今』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。