読むことへの抵抗が薄れれば、あとはジャンルを広げるだけ

仕事の関係で専門書はよく読むけれど、一般書は読まない(読めない)という場合もあるでしょう。私も研究をしていた頃は、いわゆる実験書や学術論文をよく読みました。いま考えると、それに追われることで、読むという行為自体の抵抗感は、ずいぶん減っていったような気がします。読むことへの抵抗感が薄れれば、あとは多様な書物に手を出せばいいだけです。ときに、思想や哲学といった領域に迷い込むこともありますが、そういう分野にも興味を示すことで、扱うジャンルは圧倒的に増えます。

もっとも私の場合、幸か不幸か、”読み”から”書き”へと幅を広げ、僭越ながら書けるようになったことで、論文よりエッセイを書く方が楽しいと感じるようになってしまいました。型にハマらず言いたいことを言えるし、ストレス発散にもつながりました。結果、行き過ぎた思想が生まれ、それを発言することで研究者としての寿命を縮め、挙げ句には大学を追われることになった経緯は、前著でお話ししました。

いま改めて指摘しておきたいことは、エッセイを書いていると、世のなかの不条理だとか、理不尽な仕組みだとか、葛藤への正当性だとか、そういう方向に、どうしても偏りがちになります。他人と違うことを訴えようとすると、いかにしてもそういうことを書くのがエッセイの役割だと、若干、思い違いをしてきます。その結果として、批判につながる記述が目立ってくるのです(本人は正論だと思っているのですが)。まあ、若気の至りというか、それも人生というものです。

エッセイを書くには広い視野が求められます。普通はそれを繰り返すうちにバランス感覚が養われてくるのですが、私のように、良い悪いは別にして、エッセイの魔力に駆られることがあるということです。無理をしてまで読みの幅を広げ、何かを犠牲にしてまで書きを進める必要はありませんが、読書を深めていくと、そうした偏った見方をしたくなる衝動に駆られることがあり……このことは、一応知らせておきたいと思います。

まとめ

後半はエッセイ執筆に関する話になってしまいました。

読書のきっかけは、結局のところ、本の世界に自分自身を投射できるか否かにかかっています。自分の将来に広がりのある可能性を秘めているうちは、架空のストーリーやワイドな分野の読み物に興味を持てました。大人になるにつれて、現実が見えてきます。この本を読むことが、ためになるのかならないのかを頭で考えるようになります。特定の仕事に就き、目先の課題に追われ、生活の方向性が見えた時点で、他の部分への関心は失われていきます。読む気がしないのは、本の世界への自己投射が難しくなったからではないでしょうか。

いつまでも可能性を秘めた人間のままでいたいですね。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『非読書家のための読書論』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。