小さな社会

人はそれぞれ違った「小さな社会」を抱えていて、そこで無意識に順応するように行動しています。その一番小さな社会が「家庭」で、そしてそこは恐ろしいことに通常は誰にも見えません。

「郷に入っては郷に従え」ということわざもあるように、もしその社会の常識が自分の思う常識と違っていても、うまく順応して生きていくのが一番賢い生き方で、別にそれが正しいとか正しくないとかではなく、合わせていけるとうまく生きられるというだけ。

でも家庭は、そこを牛耳るのが「親」だったり「夫」だったり、または「義母」とかいろいろなのだけれど、その特定の人がつくった異常な常識に支配された空間だということが問題で、おまけにその空間は「密室」。子どものころは、その「小さな社会」が自分にとっては唯一の「社会」だから、そこでの出来事は日常であり当たり前。

でも、学校へ行くようになり、自分の置かれていた「小さな社会」以外にも多くの社会があり、自分が置かれていた社会では当たり前だったことが実は「異常」だったことに気づき始める。

最近は、この「小さな社会」が多様化していて、どれが常識的でどれが非常識なのかの境界がわかりにくくなっているけれど、その中で自分が好む「小さな社会」を選んで、いまの自分が置かれている家庭という「小さな社会」と比べてみるといいと思います。テレビやSNSで個人の私生活を発信している人も多いので他人の「小さな社会」を覗き見ることができるから。

それで何らかの違和感を持ったら、自分のいる「小さな社会」は異常な空間だということ。そのためにも、多くの「小さな社会」を学ぶ機会を得ることが大事だし、人と多く関わって異常と正常の境界を見つけることが大事だと思います。

いつまでも異常な「小さな社会」で我慢し続けることが美徳の時代は終わった。この世には家庭以外にもいくらでも正常な「小さな社会」があります。だからどうか、自分に合った心安らぐ「小さな社会」を早く見つけてください。そんなところでいつまでも我慢していないで。嫌なものはイヤ、辞めてほしいことは辞めてくれとハッキリ言いましょう。人間には、守られるべき尊厳があるのです。

夫婦でいるのに孤独

『夫婦でいるのに孤独』は、カサンドラにとっての永遠のテーマです。

私も、休日に家に一人でいるとめちゃくちゃ不安で寂しくて、映画を見ていてもテレビを見ても、友達と会っていても、買い物をしていても、そのときが終わるとギュ~ンと孤独に引き戻されるような感覚でした。

逆にいまは、ほとんど家では一人ですが、まったく寂しくはないです。昔と比べて何が変わったのかと考えるとき、要するに婚姻当時は身近に夫という人間のカタチの生き物がいた。だから私としては、誰かといるのだから寂しくないはずだという気持ちがあった。

でも、誰かといても寂しい場合はあるということです。むしろ、そこにいる人型の生き物が、私にまったく関心がないことで、余計に寂しさを増幅させている。「まさか、そんなことあり得ない」という思い込みで。

そんな人型の生き物よりも、犬のほうがよっぽど私を好きでいてくれたし、関心を持ってくれていた。人型の生き物がそばにいるのに、自分に関心を持ってもらえないということが、これほど人の心を空虚にさせるのだと気づきました。

私たちには無意識に「パートナーとは気持ちがつながっているもの」という思い込みがある。でも実際は、夫婦でも気持ちのつながらない人たちは多い。気持ちのつながる人は、別にパートナーじゃなくてもいいって、そう思えたら、ずいぶん気が楽になります。親でも子どもでも、友達でも親せきでもペットでも、誰でもいいのです。

だから私は、何でもやってみたほうがいいし、どこへでも出かけて行ったほうがいいと思っています。そこには新しい出会いがあるからです。人間は、そういう縁をつなげるために生きているのだと思います。私は、これからはたくさんの人とつながっていきたいし、私と関わってくださる方々に少しでも貢献できる人間でありたいと思っています。

人を少しだけ幸せにするお手伝いができる人でありたい。お互いがお互いをちょっとずつ幸せにできる関係。そんな人たちとつながっていれば、いまここに誰もいなくても心はいつも温かくて、少しも寂しくはない。生きるって、そういうことなんじゃないかなって、私はそう思います。

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『カサンドラ症候群からの脱却』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。