「食ってけば?」

「親父がそう言ってっから」

優理が、

「っしゃー!」

とガッツポーズをしている。

「いいの?」望風が言うと、

「うん。大地も来っから」

と武士は言って、一階へおりていった。望風は、勉強道具や飲食後のくずなどを片付けていた。誰かが階段を上ってくる足音がする。一人じゃないなあと思っていた。武士と大地だろうと思って、片付けを続けた。特に顔をあげる必要もなく、足音が近づくのを待っていると、

「望風ちゃん、紹介するよ」

武士の父親の声がした。声を聞いて初めて顔をあげた。声のする方へ目を向けた後、となりに立つ人の方へ目を向けた。望風は、思わず後ずさりをした。驚いたからだ。少しだけ開いた口が、塞がらなかった。

「こちら、日向さん。あれ? 知り合い?」

武士の父親がたずねる。

「もかちゃん?」

と望風に驚いたようにたずねてきたのは、日向だった。

「日向さん?」

と望風が訊き返す。望風は、初めてと言っていいくらい近くでしっかり聞いた声が胸の奥に突き刺さるとともに、名前を覚えていてくれたこと、名前で呼ばれたことがうれしくて、それだけで可愛くなれた。

「あ、あーあの……」

と言いながら、日向が名刺をとりだす。

「日向です。よろしく」

そう言って名刺を望風に渡し、優理にも渡していた。望風がきょとんとしていると、武士の父親が話し出す。

「あれ? きいてない? デビューの話。日向さんが是非にとおっしゃっているんだ」

望風は、まだ少しだけ開いた口が、ふさがらない。

「あの歌声は、もかちゃんだったのか」

日向はそう言うと、

「よろしく」

と握手を求めた。望風は、恐る恐る手を差し出した。優理にも握手を求め、優理は、お願いしますとお辞儀をしていた。武士の父親が、またゆっくりメンバー全員と日向さんとで会う機会をつくってもらうからと、その場を立ち去ろうと日向を促した。

「じゃ、また」

日向はそう言うと、階段を下った。望風は立ちすくんでいた。久々にみる望風の女らしい表情に、優理は心配そうに望風を見ていた。何事もなかったかのようにふるまう望風を見抜いていた。望風はそっと一階を覗き込んだ。日向は、男性三人と女性一人の四人で食事をするようだった。急に日向さんが大人であるという実感がわいて、自分が高校生であることを負い目に感じた。勝手に気持ちを高ぶらせた自分が恥ずかしくなった。あんなに素敵な大人の男性が自分なんて相手にするわけがない。望風は、急に現実へタイムトリップしたみたいに、冷静になった。望風の心は濁った湖のように淀んだ。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『KANAU―叶う―』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。