この季語の力によって、『いつ』の表示が不要になり、俳句の少ない音数が、『何を』と『どのように』という表現により多く使われることが可能になった。

俳句の限られた音数の効率化はさらに進んだ。秋刀魚を食べると言わなくとも、『秋刀魚』と書くだけで、『今、秋刀魚を食べている』ととることにした。桜が咲くと詠まなくとも、ただ『桜』といえば『満開の桜が咲いている』のをイメージすることにした。すなわち、動詞を減らし、物(名詞)を提示することで、景色が見えることになった。

さあ、ここからが季節感の話だ。歳時記には、季語、傍題、説明、例句が記載されている。その季語がこれまでどのように使われてきたかは、例句を読んで自分で悟りなさいというわけだ。しかし初心者の私には、例句を読んでも、いまひとつ季語の使い方がわからなかった。

例えば、夏の季語の胡瓜きゅうりを例にとると、私が目にするのはスーパーで売られているもので、消費者の嗜好と美意識に合わせた、不自然にまっすぐな形で、完熟しているので胡瓜特有のとげもない。ところが、歳時記に記載されている物は、祖父母や親の時代の曲がった胡瓜で、チクチクする新鮮なとげも健在である。歳時記が捉えている物と、現代の事物の間にギャップがあるのだ。俳句では、歳時記の記載のような伝統的な味に沿って作られたのがよしとされるようだ。私が句会に投句した句が、季語の『本意』に反していますねと言われたことがある。

季語にある『本意』というものを、何冊かの歳時記で探したが、明記されているのがない。やっと見つけたのが、平井正敏ひらいしょうびん編の『新歳時記』(河出書房新社)である。これには、本意の欄があって、胡瓜の本意として、『野菜の中の野菜で、茄子とならんで最も好まれる物、その緑が夏の朝のみずみずしさを引きたてる、ちょっとユーモラスな感じもある』と書かれている。本意には、『身近で愛好者の多い、緑、夏の朝、みずみずしさ、ユーモラス』など、胡瓜を詠む時のヒントが満載である。例句を見ると、

まずして食ぶる胡瓜や荒々し 相生垣瓜人あいおいがきかじん

胡瓜らひ息の涼しき貧家族ひんかぞく 沢木欣一さわききんいち

これらの句は、本意に即しており、暑い夏に身近にあり安価なので手軽にパリパリかじって夏(の味覚)を楽しんでいると解釈すると、季節感も十分あふれている。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『春風や俳句神様降りてきて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。