永遠の阿修羅

私の父は、旧制会津中学を卒業し、陸軍士官学校に入学した。詳しいことは知らないが、結核を患い、療養の後早稲田大学に進学した。私が物心ついた頃は、故郷でパルプ工場を営んでいたが生活は厳しかった。父の実家は叔母の随筆によると、いわゆる庄屋のような家で、家業は商売が主で三代目興惣左衛門は、電気のない時代に水力発電所や製糸工場を作ったりした人だったらしい。

農業も営んでいて、小作人も多く、当時を知る人によると、普通の村の人たちが近寄り難い家だったと知って驚いたことがあった。しかし、あくまでも小さな寒村の庄屋だったと思う。

一方の母は隣町生まれ。学歴は尋常高等小学校卒(今の中卒以下)。両親を幼い頃に亡くし、子だくさんの長男の旅館の家で育った。長兄夫婦の間にできた赤ちゃんを背負って、学校に通ったこともあったらしい。また、只見町という遠くの親戚の家に預けられたこともあったと話していた。

本好きの学究肌の父は、商売の才能を持ち合わせていなかったのか、その後パルプ工場は倒産した。母は、父が養子に入った祖父の妹が住んでいた温泉付きの家の二間から、旅館業をスタートさせた。寝る間もないほど働いて、私たち四人兄弟を育ててくれた。

経営は父だったのだろうが、小学生の子どもの眼には、本ばかり読んでいるなまけ者に見えた。寡黙で優しい人だったが、ミレーの絵のように、村の人たちが粗末な身なりで一生懸命働く姿を美しいと思っていた私にとって、父の生活は納得がいかなかった。子ども心に、働く姿を見せてほしいと何度も思った。

質素で汗を拭いながら田畑仕事をする村人たちを、なぜ、私は美しいと思ったのか……。後にこの想いが、私の中で意外に大きく根付いていたことを知ることになった。

それでも母は、貧しい家でろくな教育を受けなかったわりには、どこか気品のある美しい人だった。そして意地悪な所がない、無邪気な可愛い人でもあった。

祖母は慈悲深い素敵な人だった。一般的な嫁姑の関係ではなく、祖母に助けられたとよく話していた。女性は皆働き者で、家族というのは母親の生き方、考え方が大きく反映するように思われた。

母は晩年、古布やちりめんを使って、小さな人形作りを趣味にしていた。お客様にさしあげ、喜ばれると嬉しそうだった。当時会津若松市内に、古い着物や木目込み人形や小物類を扱っていたお店があった。明治・大正時代の生活が忽然と現れたような雰囲気を醸し出していて、店内は、古着が放つ少しきな臭いにおいが漂っていた。

どんなに喜ぶだろうと期待して母を連れて行ったのに、すぐ外に出てしまった。実家に帰ってから、妹に「あんなに悲しい店はなかった」と言ったことを知り、ショックを受けたことがあった。

母の脳裏に、当時の辛かった思い出が突如噴き出したのだろうか。人の心の奥底に残る記憶を懐かしいだけのものに組み替えることはできないものなのだろう。母はどんな思いを抱え、乗り越えてきたのだろうか……。