従来、守護を置かない大和国にあって、守護の役を果たしてきた興福寺も(つい)には和談を持ち掛けてきた。これにより、侵攻から(わず)か半年足らずで儂らは大和国を制圧することができた。

河内方面でも戦況が刻々と変化していた。畠山高政は、どうしたことか長慶様に無断で謀反人の安見宗房と和睦した。

畠山高政の背信行為に激怒した長慶様は淡路洲本で三好実休(之虎)、安宅冬康と会談し、河内への出兵を決断した。

この時、十河一存は(やまい)を得ており、この会談には参加しなかった。

三好勢は河内に侵攻し、安見宗房の拠る飯盛城から西に一里と離れていない河内国の十七箇所という所に布陣した。

実休隊は行動を別にし、畠山高政の拠る高屋城を攻めるべく南下した。すると「三好実休勢南下」の報に恐れをなした畠山勢は、戦わずして高屋城を捨て、紀伊へ逃れた。実休隊はこれを追撃し、石川郡でこれに追いつき、畠山勢を散々に討ち負かした。

勢いに乗った実休隊は、畠山勢の援軍として紀伊から北上して来た根来寺衆も(つい)でのように撃破した。

一方の飯盛城では、実休隊が陣を離れて南下するのを見届けると、安見勢が城から討って出て、河内十七箇所の三好の陣へ攻めかかった。が、三好勢の先陣として堀溝辺りに布陣していた池田長正率いる池田衆が奮戦し、これを討ち破った。

戦後、飯盛城には長慶様が、高屋城には三好実休がそれぞれ入城し、長慶様はこれ以後、飯盛城を居城とした。

畠山高政と安見宗房は堺へ退去した。