ピスタンピリピーノでの買い物

ベニグノ・アキノ・ジュニア、ニノイの愛称で広く国民に人気のある元上院議員、五〇歳(一九八三年八月当時の年齢)。ルソン島中部のタルラック州出身。父も祖父も有名な政治家。二二歳で地元コンセプシオン市の市長に就任。同じ年にタルラック州の大富豪の娘、コラソン・コファンコ(後のフィリピン共和国第一一代大統領)と結婚。

二九歳でタルラック州の歴史始まって以来の最年少の知事に選ばれる。更に、三五歳でフィリピン史上最年少の若さで上院議員に当選。その後、フィリピン議会で何度も反マルコスの急先鋒に立つ。政治集会などでは雄弁家であるアキノの知的で論理的な演説に大衆は酔いしれた。そして、カリスマ性と政治的統率力を併せ持つアキノは野党であるリベラル党のリーダーとなり、一九七三年に任期が切れるマルコスに代わる大統領候補として期待された。

一方大統領二期目に入っていたマルコスは更なる政権持続に意欲を燃やしていた。憲法上大統領には三期以上就けないので、憲法を改正しようと奔走するも失敗。そこで、七二年に共産党などの反政府勢力から国を守るためと称してフィリピン全土に戒厳令を発令し、憲法を停止する。

戒厳令施行後の第一号逮捕者がニノイであり、国家転覆、殺人、火器不法所持などの容疑がかけられた。軍事法廷で行われた裁判は五年に及び、七七年銃殺刑を宣告された。アキノ側は反証の機会を拒まれたという旨の趣意書を裁判所に提出したため再審されることになるが、元々でっち上げの容疑のため裁判は行き詰まってしまい更なる獄中生活を余儀なくされる。

八〇年心臓発作で倒れ、バイパス手術を受ける必要があると診断され、マルコスはアキノのアメリカでの手術を認め渡航許可を出す。これは事実上のアキノの国外追放を意味する。術後、アキノはボストンで家族と共に暮らし、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学で権威ある教職ポストに就いた。

しかし、アキノの目は常に故国フィリピンの政治腐敗と経済停滞の様を見ており、その耳にはマルコス独裁政権下で苦しむ国民の声が聞こえていた。カルロスはニノイについて熱く語ってくれた。正嗣は知りたいと願っていた情報を得て、ここ一週間心のどこかに燻っていたモヤモヤが晴れた思いだった。

「今のお話でニノイがマルコスの政敵だということがよく分かりました」

「ニノイは本当に優れた政治家だよ。それを誰よりも知っているのがマルコスだし、誰よりも恐れているのもマルコスなんだ」

「そのマルコスにとっての目の上のたんこぶが帰ってくるんじゃ、マルコスも心中穏やかじゃないですよね」

と金原もこの話題に興味を示す。

「戒厳令を発令し長期独裁政権に持ち込んだマルコスのやり口って、インドネシアのスハルトと同じですよね。でも、スハルトは軍人だからできたと思うんですよね。純粋な政治家のマルコスはフィリピン軍をちゃんとコントロールできているんですか」

と幾世はカルロスに聞く。

「現在軍の頂点に立つファビアン・ヴェール参謀総長はマルコスの忠犬って言われるくらいのイエスマンだし、国防大臣のエンリレもマルコス派だしね。軍自体の規模も戒厳令前と比べ三倍くらいになっているんだ。それがマルコスの意のままに動くからね」

「もうあんたら、難しい話ばっかりしてないでご飯食べて。料理も冷めちゃうで」

話に夢中になり料理にあまり箸をつけなくなった四人対し、キヨミが早く食べるよう促した。その夜は一○時頃まで、カルロスとキヨミの結婚前の話やら日本とフィリピンの文化の違いから発生した問題やら正嗣が世話した二ヵ月前のグループで起こった事件等を話題に会話もはずみ、幾世のマニラ最後の夜を盛り上げた。