しかし、悲しいかな、心ない親や歪んだ親に育てられた子供の中には他人の痛みがわからない子供に成長してしまう人がいる。そういう子供は自分に逆らわない弱者を嗅ぎ分け見つけ出すのが本当にうまい。同じ傷者同士まるで磁石のように吸い付いて離れない。大自然の台風はじっとしてれば通り過ぎるが彼らは違う。

彼らは本当に心から楽しんでイジメる。無意識に他者との繋がりを求めているのではないだろうか? 普通に考えて、嫌いならその相手と距離をとるだろうが彼らは違う。むしろ近づいてくる。

飽きずに毎日毎日イジメてくる。これはもう、一種の求愛表現ではないかと思えるほどだ? 有難迷惑も甚だしい!

イジメられっ子側はイジメっ子に愛情を感じてないので無抵抗を貫き、いつかは終わるだろうと我慢するが、そうはいかない。相手はより一層、増長してより過激になっていく。ときには肉体に、ときには精神に、毎日毎日自分の心の渇きを心底楽しんでぶつけてくる。

また、他人は自分の鏡である。相手の好きなところは自分の好きなところでもある。逆に相手の嫌いなところは自分の嫌いなところでもある。思い当たるふしがあるのではないだろうか?   

イジメるにあたって『あ! こいつ嫌い。イジメたいな』と思ったら、それは相手を通して自分自身についての嫌いな部分を見ているに過ぎない。例えば、顔が気持ち悪い。自信がなくなよなよしている。貧乏人。はっきりものを言わないなど、自分自身の心の傷に気付かず、自分と同じ心の傷を持った相手を見ると、同族嫌悪で拒絶反応が起きて相手を受け入れられなくなる。

自分自身の絶対に見たくない一面を他者を通して見せられるのだからたまったものではない。だから攻撃することで自分の弱さを否定しようとするのではと僕は考える。

脆くて儚い偽りの強者である。同情の念すら湧いてくる。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『イジメられっ子の僕が愛を知った真夜中に』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。