冬に初めて訪れたときにもあったO型ともう一台のO型の中古は計二台、そして新品はB型、O型と、その中間のサイズのA型が一台ずつ、これは表通りに面した明るい窓辺に置かれていた。和枝は目をつぶり、ショパンのノクターン13番ハ短調を滔々と弾いていく。

ゆったり音を転がしたかと思うと突然ぴょんと立ち上がり蜜蜂みたいに忙しげに隣に移り、また目を閉じ曲にのめり込んでいく。コントを見せられているような感じもするが、和枝本人は真剣そのもので、その動きは芸術家らしくもあり、道を究める学者にも見えたりする。

「どんな感じ?」と聞くと、「何もわかんない」とあっけらかんとしている。どういう頭の構造をしているのだろうと苦笑するしかないが、どんなピアノに出会えるのだろうとわくわくしている今が一番幸せな時なのかもしれないと廉は思った。

二人のピアノ探しの旅は大いなる好奇心と細心の注意をもって進められている。それからちょうど一カ月後、調律師の伊東さんの紹介で浜松にある亜細亜ピアノを見に行くことになった。ここは元々ピアノメーカーで、もう半世紀以上、自社ブランド「TITAN(タイタン)ピアノ」を作り続けてきたが、数年前スタインウェイの正規特約店になり、販売事業にも力を入れていた。新品も扱うけれど、長年培ってきたピアノ再生技術を生かした中古スタインウェイの在庫が充実しているとのことだった。

国産の出物を探し続けながらも、同時に「お買い得スタインウェイ情報」にもアンテナを張り始めた和枝と廉にとって、亜細亜ピアノは魅力の場所だった。空には雲ひとつなく残暑さえ感じる。朝十時に藤沢駅に着き、「大船庵」の売店で鰺の押し寿司とサンドウィッチを買って、ホームに下りた。

行きは四時間、東海道線の旅。小田原で乗り換えると車内はがら空きで、ボックス席に並んで腰かけ、すっかりピクニック気分でお弁当を食べた。二人とも頭のネジが三回転緩んだような開放感に浸っていた。

「廉、お寿司とサンドウィッチってどういう取り合わせ? でもめちゃくちゃおいしいね。ところで、この席食べていいんだっけ?」

何が可笑しいのか和枝はひとりではしゃいではケラケラ笑って、しまいにケホケホむせている。目的地の浜松市郊外の駅に着く頃には声がかすれていた。気付けばJR東海のエリアに入っていた。橋上式の駅の改札を出ると亜細亜ピアノの営業担当者が迎えに来てくれていた。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。