なんとか理解可能だったのは、1618年から1648年の三十年戦争時代の攻城戦の舞台になったこと、1692年にルイ14世(在位1643年~1715年)率いるフランス軍に包囲されながら耐え抜いたことおよびフランス革命軍により最終的に破壊されたことです。第二次大戦後に城の外壁を利用してホテルが建設され、内部は快適な4つ星ホテルです。ライン川沿いには昔のままの石造りの内装のキャッスル・ホテルもあるようですが、当然ながら値段もそれなりに高くなります。

ちなみに、ラインフェルス城内のホテルの宿泊代は145マルク(\11,600@80)で、デュッセルドルフ市内のホテルに滞在するよりはるかに割安です。ライン川はローマ時代から北部ヨーロッパ交通の大動脈で流域の都市の多くはローマ時代までその起源を遡ります。

 

ライン川はまた帝国の境界をなす重要な防衛線で、ローマ軍団がライン川沿いに配置されたのはユリウス・カエサルがガリア遠征時にライン川を挟んで蛮族ゲルマン人と対峙した時に始まります。ライン川クルーズのガイド・ブックによるとコブレンツの近くのウルミッツが紀元前55年にユリウス・カエサル率いるローマ軍のライン川架橋地点とのことですが、塩野七生『ローマ人の物語』によると架橋地点については未だ定説なしとのことだったと記憶しています。お国自慢と思えばかわいいものです。

ウィンストン・チャーチルによるとライン川の向こう側は野蛮人の住処※注2)ですが、マインツ、コブレンツ、ボン、ケルンはいずれもライン川の左岸で文明の地ということになります(ケルンはラテン語の植民地<コロニア>が語源です)。

日曜日はモーゼル川との合流点であるコブレンツまでライン川をさらに下り、そこから列車でボン(大聖堂とベートーヴェンの生家博物館観光)、ケルン(大聖堂観光)を経由して夕方デュッセルドルフ到着。強行軍で若干疲れましたが、割安ホテルでの滞在により出張旅費の節約を果たしました。

 
 
 

※注1)ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であり神秘家、作曲家。

※注2)イギリス首相ウィンストン・チャーチルは第二次世界大戦中にナチス・ドイツを「川向こうの野蛮人」と呼んだと伝えられています。ライン川をローマ帝国の防衛線としたことを文明世界と蛮人の世界との境界としたことに結び付けたもの。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『ヨーロッパ歴史訪問記』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。