幾世は入社七年目のスタッフで、ニューヨークに二年、フランクフルトに二年の駐在後、マニラに来て二年五ヵ月あまりになる。どの支店でも勤務評価は高く、五年でマネージャーに昇進した。社長の入木田からかなり慰留されたが、退社理由が余命幾ばくもない父親から家業を引き継がねばならないということで、入木田も最後は折れざるを得なかった。

送別会の翌日は第三土曜日だったため正嗣は半日仕事をしなければならなかったが、午後は幾世の帰国準備の手伝いをしようとすぐに寮に帰った。数ヵ月の間だったが、何かにつけ一番世話になったのが幾世だ。

寮にもどると、幾世はリビングでビデオを見ていた。人気喜劇俳優のドルフィーとパンチートの出ているコメディー映画だった。

「もう荷造りは終わったんですか。お手伝いしますので、何でも言ってください」

「大丈夫だよ。準備はもう大体終わっているから。こっちで買ったこのビデオデッキとテープ全部置いていくから、見ていいよ。日本じゃベータのテープ見られないから」

日本ではVHSがビデオ規格の主流になっていたが、逆にフィリピンではベータマックスの方が圧倒的に多かった。

幾世には語学の才があり、前任地のドイツでは半年間で日常ドイツ語会話をマスターしたそうだ。こちらでは英語で通していたので、幾世のタガログ語をあまり聞いたことはなかったが、フィリピン映画でタガログ語を勉強していたそうだ。

「見納めと思って朝から何本か見ているけど、こっちの映画には独特の面白さがあるよね。ストーリーも分かりやすいし」

「フィリピンの映画ってまだ見たことないですね。意味は分からないんですけど、時々シャーロン・コネータの歌を聞いています」

「へぇ、シャーロンが好きなの。かわいいもんね。彼女、パサイ市長の娘でお嬢様なんだよ」

幾世もシャーロンを知っているようで、なぜかうれしかった。

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『サンパギータの残り香』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。